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マタイによる福音書連続講解説教

2024.9.29.聖霊降臨節第20主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書13章53-58節『 主イエスを受け入れた人々 』

菅原 力牧師

 今日の聖書箇所は、主イエスが人々に多くのたとえを語ったその後、故郷にお帰りになったときの様子が描かれている箇所です。

 読んでみると、書いてあることはわかることです。

主イエスが故郷に帰り、会堂で教えておられた。この会堂はユダヤ教の会堂であり、故郷の会堂であり、主イエスにとっても馴染み深い会堂だったでしょう。その会堂での話を聞いた故郷の人々が驚いたというのです。

 「この人は、このような知恵と奇跡をおこなう力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、われわれと一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」

 それが驚きの内容だったのです。

 イエスの故郷ナザレは小さな町。村といってもいいほどの場所です。そこでは人が少ない分、よその家のことまでよく知っている村文化があり、繋がりがあったのでしょう。

 主イエスが故郷に帰れば、宗教活動に忙しく、なかなか家族のもとに帰ってこない息子として、町の人々の視線が否応なく集まったでしょう。小さいころからよく知っている、という思いが故郷の人々にはあったでしょう。あそこの家の子だ、お父さんのこともお母さんのことも知っている。兄弟だって知っている。みんな知っている。そのよく知っているイエスが、神を語り、福音を語り、力あるわざをなしている。よく知っているだけに、なんだこれは、という異和感が強いのです。しかもよく考えてみると、これはちいさいころ知ってるけど、今は偉くなったとか、出世して見違えたとか、変貌したとかというのとは違うのです。そういうことなら故郷の人々も、どこかで受けとめられる。

 しかしここで故郷の人たちが言っている、このような知恵と奇跡をおこなう力をどこから得たのだろう、というのは、異質性といってもいい。語ること為すこと怪しい、といういかがわしさも含め、異質性です。勉強を積み重ねた結果とか、精進した結果というようなことではなく、神懸った、へんなことを言い出したイエスは、彼らの感覚から言えば怪しい。知っているイエスと、今人々に語りかけ働きかけているイエスとは、まるで繋がらない。身内の者がイエスを取り押さえに来た、という報告がマルコによる福音書にあります。あの男は気が変になっているという言われていて、その風評を聞いて身内の者がやってきたというのです。それは身内の者だけでない、故郷の人々の間で流れていた噂でしょう。故郷の人々はそうした異和感を持ってイエスを見つめていたのです。

 57節「このように、人々はイエスにつまずいた。」とマタイ短くしかしはっきりと記しています。故郷の人々はイエスにつまずいた、というのです。

 このつまずくという言葉ですが、日本語としての普通の使い方は、「歩行中に誤って足先にものを当てて前のめりになる」、という意味で、ほとんどの辞書がそういう意味のことを書いています。ところがわたしが見た中であえてつまずくのほかに、つまずきという別項目をたてて、キリスト教ではと但し書きをして、語釈しているものがありました。「キリスト教では突き当たった人を打ち倒すもの」という語釈です。よく聖書を読んでいる人なのではないかと思いました。要するに聖書でつまずくとは、石に足先がぶつかって前のめりになる、という程度のことではない。それに突き当たったものが打ち倒されるほどのリアクションがあるものなのです。

 いったい何につまずくのか。イエスにつまずくのです。大工の息子で、マリアの息子で、兄弟もいるこのイエスが、神の子であって、神の福音を語り、神からの力を受けてわざをなす。われわれがよく知っているあのイエスが、神の子であるというようなこと、いったい誰が受け入れられる、というのか。故郷の人々は、まさに激しくつまずくのです。

 しかしよくよく考えればわかるように、イエスにつまずくのは故郷の人たちだけでない。まして身内の者だけでもない。誰でもつまずくのです。弟子たちもつまずくのです。なぜなら、そもそも一人の人間が人間のままで神の子だ、ということに耐えられないのです。つまり、神の独り子が、この世に生まれるということそのものに、そしてよりによって人間の父親と母親との間に、一人の子として生まれる、それがなぜ神の子であり得ようか。それは人間の子にすぎないだろう。そしてやがて、十字架にかかって無力なままに死んでいく、ということに誰もが躓くのです。神の子が無力なままに人間に逮捕され、鞭打たれ、十字架にかかり、何の抵抗もできず死んでいく、これはわたしたちの納得いくようなものではなく、人は十字架につまずく。そしてさらに十字架の死の後、神によって復活させられる、それもまたつまずきなのです。イエスという存在、イエスの生涯、その全部が躓きなのです。故郷の人々がイエスの教えにわざに驚き、つまずいたこと、ある意味当然です。それはただたんに不信仰とか、無理解という言葉で片付けられるようなことではない。イエスという方につまずかない方が不自然ともいえるのです。

 もう少し丁寧に考えてみたいと思うのですが、故郷の人々がイエスに驚いた、その驚きの中身は決して一色ではないかもしれません。すごいという驚嘆の驚きもあり、気が変になっていないか、という驚きもあり、どこでこんなこと受けとったんだ、という驚きもあり、その驚きは多層的です。しかし、根本のところで、人が人を超えるものを語ったり、その力を何らかの形で示せば、人は驚きますよ。お互い人という枠の中で向き合っているのですから。

 イエス・キリストの存在そのものがつまずきという場合、キリストの存在が神の働きそのものであり、この人において神が働いている、ということなのですが、その神の働きそのものに驚くのです。内容以前に、この方において神が働く、それ自体に驚く。しかもその神の働きということが、自分たちが想像していたものと違えば、さらに驚く、ということだろうと思うのです。何を言っているかわかるでしょうか。わたしたちはこの世界の中で、神が働く場というものを現実には見ていない。実際には神は働いてくださっていても、神が働くその場を見ていない。だから多くの人にとって神などいないのではないか、と思うのです。

 しかし今この聖書箇所では故郷の人たちは不思議なものを体験している。このイエスという自分たちがよく知る人物、よくよく知っている、家族も知っている、その人物において神が働き、神の力の中にある。神のことをわたしの天の父と呼んでいる。故郷の人々はもちろんその風評や、噂や、実際に見たことを含め、頷くことはできない。まさかこの男が、そんなことはありえない、と思っている。しかし故郷の人々は、神の働きというその言葉やわざの前に立っている。そして彼らは彼女たちは、イエスにつまずいた、となっているのです。

 イエス・キリストの前に立って、人は驚く。その存在、言葉、わざ、そして十字架、復活、その一つ一つに出会って、驚くのです。そして確かにこの方の前でつまずくものも多い。十字架で死んだこのものがなぜ救い主なのか、大工の息子であるイエスがなぜ救い主なのか、つまずくものがいるのです。しかし同時に、この驚きの中で、かみのくすしき御業を信じる者とさせていただくものもいるのです。地上に一人の嬰児として生まれ、わたしたちと同じ人間となり、わたしたち人間の弱さや罪を身に負い、死の力の前で無力な人間のひとりとなり、わたしたちの存在を負い、十字架にかけられていったこの方こそ、神がわたしたちにお与えくださった救い主なのだ、ということをこの驚きの中から信じさせていただき、主と告白するものとさせていただくものがいるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」ヨハネ福音書に記されている主イエスご自身の言葉です。

 神の言葉、神の業の前で人間は驚きとつまずきに取り囲まれている。しかし同時に、人間の力や能力ではつまずきに取り囲まれている中にあっても、神の働き、導きの中で、信仰へと招かれる道を神は与えてくださる。聖霊の働きです。主イエスの57節の言葉は故郷の人々に向けた憤りの言葉ではなく、つまずきの中から信仰へと招かれることを強く願う言葉なのでしょう。

 イエス・キリストの言葉の前に立つ、イエス・キリストのわざの前に立つ、まともに向き合えば向き合うほど、驚きます。そしてときには、突き当たったものが打ち倒されるような、経験もするのです。この13章のたとえでもわたしたちは自分のうちに蒔かれた福音の種が百倍になるというような主の言葉を驚いて聞くけれど、つまずいているという人もいるかもしれない。しかしイエス・キリストの前に立つことは、そこで繰り返し神の導き、招きに捕らえられていくことで、信仰へと招き入れらて行くことなのです。そして思いも新たにこの方こそ、救い主であるということを受けとりなおして、いくことなのです。