ntent="text/html; charset=utf8" /> 大阪のそみ教会ホームページ 最近の説教から
-->

マタイによる福音書連続講解説教

2024.10.13.聖霊降臨節第22主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書14章13-21節『 主から与えられるパン 』

菅原 力牧師

 領主ヘロデがヨハネを殺害したという不穏な空気の中、主イエスは場所を移り、人里離れたところに退かれました。人里離れたところとは、主イエスにとって一人祈られる場であり、神からのみ言葉、神からの使命を新たに受ける場であったのではないでしょうか。しかし大勢の群衆は主イエスのことを聞いて、方々から集まってきました。群衆が主の後を追ってくるその姿を見て主は深く憐れみ、癒しのわざをなさったのです。

 「夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。『ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。』」主イエスの後を追ってくる大勢の群衆、その数は五千人以上の人々でした。とんでもない数の人々です。弟子たちがこういうのももっともです。そもそも、群衆は主イエスの言葉とわざに出会いたいと願って追いかけてきた人々なのです。その人たちの食事の世話など弟子たちの手に余ることであり、守備範囲外のことなのです。しかも「ここは人里離れた所」なのです。「群衆を解散させてください。」そうしたら各自「自分で村や町に食べ物を買いに行くでしょう。」

 すると主イエスは、「行かせることはない。あなた方が彼らに食べるものを与えなさい。」弟子たちも、主イエスも食糧が必要だ、という点では一致していました。当然です。おそらく今のような一食抜いても大丈夫という感じではなく、ろくろく食べていないような人たちもいたでしょう。だからこそ、弟子たちも主イエスも食糧が必要だということはわかっていた。しかし各自で買いに行かせるという弟子たちの意見を主は退けたのです。それだけでない、あなた方が彼らに食べるものを与えなさい、と言われたのです。

 弟子たちはこの主イエスの言葉に心底驚いたでしょう。

「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」五千人を超える人々、しかし手元にあるのは、わずかに五つのパンと二匹の魚なのです。焼け石に水、砂漠に水まき、なまじわずかばかりあることでかえって、無力感が募るような状態です。

 ところが主イエスは「それをここに持ってきなさい。」といい、群衆には草の上に座るようにお命じになったのです。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで讃美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちにお与えになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。

 主イエスは弟子たちの手元にあるものがわずかだとか、少なすぎるなどということにお構いなしに、「ここに持ってきなさい」という。そして群衆を草の上に座るように命じて、その弟子たちが持ってきたものを取り、天を仰いだ。「讃美の祈りを唱え」と訳されている言葉は、「祝福して」という言葉です。そして裂いて、弟子たちにわたし、弟子たちは群衆に与えた、というのです。

 ここを何度でも読んでみてほしいのです。主イエスのなさったこと、一連の動作がここにはしっかり描きとどめられている。まず命じられた。そしてそこにあるパンを取り、天を仰ぎ、祝福し、裂いて、渡し、与えた、とあるのです。

 日本語訳で言えば、7つの動詞が書かれているのですが、その中で分詞型といって動詞と形容詞の働きを持ったもの5つ、残りの二つが通常の動詞。その二つとは「祝福する」、と「与える」なのです。つまりこの一連の動作は祝福して与えるためのもろもろの動作なのです。五千人以上の人間にとって、あまりにわずかなものにすぎない五つのパンと二匹の魚。しかし、主がとって、主が天を仰ぎ、主が祝福する。そして主が裂き弟子たちに渡して、弟子たちが群衆に与えるのです。そこですべての人が食べて満腹した、という奇跡が起こったのです。

 もう一度この聖書をていねいに読んでみます。人里離れた場所で夕暮れになったので、弟子たちが主イエスのもとに来て、ここは人里離れた場所だから、群衆を解散させてください。そうすれば各自で村に行って食べ物を買いに行くでしょう。行くでしょうという言葉は出ていくでしょう、と訳せる言葉。それに対して主イエスは「行かせることはない」、と言われた。これは「出ていく必要はない」という意味の言葉です。弟子たちと主イエスとの間で受けとめていることの違いが際立っていく場面です。弟子たちはここから出ていかなければ、食べ物はない、といい、主イエスはその必要はない、といっているのです。

 注意深く読むと、両者はあることを巡って対話しているです。弟子たちは「ここは」人里離れた所で、といい、「ここには」パン五つと魚二匹しかない、というのです。しかし主それを「ここに」持ってきなさい、という。つまり「ここ」の受けとめが違うのです。マタイはそのことを鮮明にしている。

 「ここ」とはどういう場所なのでしょうか。弟子たちにとって「ここ」は人里離れた場所、夕暮れになって暗くなっていく場所、食べ物のない場所、パン五つと魚二匹しかない場所。無いない尽くしのような場所です。しかし主イエスはそこにあるわずかなものを「ここに」持ってきなさい、と言われた。「ここ」とはどういう場所なのですか。

 「ここ」とはキリストがおられる場所、なのです。

 「ここ」はキリストがいてくださり、キリストが群衆を見つめて、キリストがお語りになる場所なのです。

 そして「ここ」はキリストが群衆にとって必要なものを、祝福して与えてくださる場所なのです。

 「ここ」は確かに人里離れた、夕暮れになっていて、必要な食べ物のない場所です。しかしキリストがそこにおられることで、「ここ」は奇跡の場になる「ここ」なのです。キリストによって必要ないのちの糧が与えられる場所になる「ここ」なのです。わたしたちは聖書を通して奇跡というものに出会います。奇跡をどう受け取るのか、ということはそれ自体むずかしいことです。

 しかし、キリストがおられるその場所は奇跡が起こる場所といっていいのです。キリストによってわたしに赦しが与えられる。キリストによって新しいいのちが与えられる。それはまさに奇跡の出来事です。キリストによって群衆に命のパンが与えられた、キリストによっていのちの糧が与えられる。さらに言えば、キリストが共におられる、それそのものが奇跡と言っていいことです。神の独り子が共におられる。そして、恵みが、赦しが、いのちが与えられる。キリストがおられる場所は奇跡が起こる場所であるのですが、そもそもキリストが共におられる場所そのものが奇跡だと言っていいのです。キリストが共にいてくださる、それ自体が奇跡であり、そこで奇跡が起こるのです。

 この供食の奇跡と呼ばれる出来事は、キリストの歩みの中で、起こった出来事です。しかしこの出来事は、その後何度も何度も思い出される出来事になったのです。

 19節の主イエスの一連の動作、この動作を主が繰り返される場面がこのマタイ福音書にあります。26章です。最後の晩餐、主の晩餐と呼ばれる場面です。主が弟子たちにパンを取って、讃美の祈りを唱え(つまり祝福して)それを裂き、弟子たちに与えた、という聖餐の原型となる食事です。

 弟子たちはこの主の晩餐の時に、14章の出来事を、人里離れた場所で主によって祝福し、裂かれたパンが自分たちに渡され、それを自分たちが群衆に与えた、あの出来事を思い起こしたのではないか。そして、あの供食の出来事は、たんに食べ物が与えられた奇跡的な出来事、ということを超えて、主イエス・キリストの十字架へとつながる、まことのいのちの糧を与えるキリストの救いのわざの先触れ、指し示しになるものでした。

弟子たちは、主の晩餐の時、おそらくその意味はよくわからなかったでしょう。キリストがパンを裂いて、与える、その動作が何を意味するのか。やがて弟子たちは、復活の主に出会って、あのパンを裂かれたキリストこそ、わたしたちのためにご自分の身体を差し出し、十字架で血を流された、その主の体をあの食事において与えてくださったのだ、ということを知るのです。復活して新しいいのちを与えてくださった、それは主があの食事の時にいのちの糧を与えてくださった、あの主の晩餐にこそ、その意味としるし込められていたのだ、ということを知らされていったのです。と同時に、主の群衆の供食というあの出来事は、十字架の出来事へと、救いの御わざへとつながる、主が一人一人にいのちを与える主のお働きだったのだ、ということに気づかされていったのです。

 群衆への供食はたんに過去に起こった驚きの出来事、という話ではない。キリストが共にいてくださる「ここ」に気づき、キリストの御わざに心を向けるときに、主が今も生きて働いて、一人一人にいのちの糧を与えてくださる、その恵みの中にわたしもあるのだ、ということを知らせる出来事なのです。