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マタイによる福音書連続講解説教

2024.10.20.聖霊降臨節第23主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書14章22-36節『 安心しなさい 』

菅原 力牧師

 五千人以上の人々に食べ物を与える、そしてすべての人が満腹した、という奇跡の後、主イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へと向かわせ、群衆を解散させて、ご自分は一人祈るために山に登られました。

 夕方になっても主はずっと祈っておられたのか、一人でそこにおられました。弟子たちだけが乗った舟は向こう岸に向かっていました。既に陸から相当離れていたのですが、向こう岸についていないのは、逆風のため波に悩まされていたからなのです。弟子の中には漁師もおり、舟の扱いは慣れていた人たちがいたにもかかわらず、その人たちが手を焼いたのですから、相当な風だったのでしょう。しかもあたりは闇に包まれていき、弟子たちの不安はとても大きかった。夜が明ける頃、と聖書にありますが、原文は「第4警時」という言葉が使われています。これは午前3時から6時ごろを指す言葉で、夜が明ける頃とだけは言えない、未明という日本語がありますが、その方がこの場合適当かも知れません。

 不安の中にあった弟子たちに、まだ陽の光が射してはいない暗闇の中で、湖上を歩いてくる人が見えたのでしょう。思わず弟子たちは「幽霊だ」と叫んだというのです。確かに、歩いてくる人物が誰だかわからないからそう叫んだのでしょう。そもそも湖の上を歩くということ自体、幽霊としか思えなかったのではないか。しかも舟は強風で揺れているのです。恐怖のあまり叫び声をあげた、とあるのですが、弟子たちの状況を思うとその恐怖感はよく伝わってくるのです。

 主イエスはそのような弟子たちに向かって声をかけられます。その時の様子から想像すれば、大きな声で呼びかけられたのです。

 「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

 この安心しなさい、という言葉、元の言葉は勇気を出しなさい、とか、しっかりしなさい、という言葉です。いろんな含みがあるの確かですが、この文章の中心にあるのは、「わたしだ」というイエス・キリストの言葉です。わたしだ、だから勇気を出しなさい、ということであり、わたしだ、しっかりしなさい、ということです。注意して目を凝らしてください。キリストがわたしだ、と言ってくださったとき、風も波も鎮まっていないのです。キリストと出会うのなら、キリストの声を聞くのなら、直ちに嵐が鎮まるわけでも、波も凪ぐのではない。依然として大きな揺らぎの中にあるのです。その揺らぎの中で弟子たちは主イエスの言葉を聞いたのです。それはわたしたちが記憶しておいていいことです。

 するとペトロが主イエスに対して、こう応答したのでした。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」ペトロはいったい何を言い出したのか、と思う人もいるでしょう。28節の意味は「主よ、あなただったのですね。あなたがわたしたちに呼びかけてくださったのですね。それなら、わたしに命じて、水の上を歩いてあなたのもとに行かせてください。」ということです。ペトロは風と波の不安の中で出会ったのが、幽霊だと恐怖心から叫び声をあげた。しかしその方は幽霊ではなく、主イエスであることを受けとめたのです。この不安の現実の中に、キリストがおいでくださり、自分に声をかけてくださっていることに気づいて彼はまさしく勇気づけられたでしょう。うれしかったのでしょう。ペトロは勢いもあってか、水の上を歩いてあなたのもとに行かせてください、と言ったのです。

 これは突拍子もない発言でしょうか。破天荒な発言でしょうか。確かに驚くような発言です。水の上を歩いて、などと言うのは。

 しかし、この水上歩行の直前、主イエスは五千人以上の人々に対して供食をおこなっているのです。それ以前にも、手の不自由な人を癒したり、盲人の目が見えるようにしたり、わたしたち自身これらあまりに多くの奇跡行為をどう受けとめていいのか、定まってはいなくとも、聖書は奇跡行為者としての主イエスをずっと書き記しているのです。そして弟子たちはその行為を一番近くで見てきた人たちなのです。主が共にいてくださるその場所で、神の御わざが起こされていく。弟子たちはそのことを経験してきた一人一人なのです。その弟子の一人が、不安と揺らぎの中で主イエスの存在に出会ったのです。しかもその方は湖上を歩いて近づいてこられた。その主のおそばにわたしも水の上を歩いて行かせてください、と言ったことは、突拍子もない言葉ではなく、破天荒な言葉でもなく、ペトロの信仰の言葉、信頼の言葉、何より主のおそばに行かせてください、という主への敬愛の言葉だと言えるのです。

 主はそのペトロの言葉に応じて、「来なさい」と呼びかけられた。ペトロは大胆にも舟から降りて水の上を歩き始めたのです。「水の上を歩き」と書かれているので、どんな形であれ、彼は水の上を歩いたのでしょう。ただ驚くべきことです。ところがペトロは歩き始めて、「強い風に気がついて怖くなり、沈みかけた」というのです。「来なさい」と呼びかけてくださった主イエスを見つめることよりも、強い風に心奪われて、沈みかけたというのです。

 ペトロはすぐに「主よ、助けてください」と叫んだのです。

 主はすぐに手を伸ばしてペトロを捕え、「信仰薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。

 ペトロは風と波、揺らぎの中で不安にあったときに近づいてきてくださった主を見て喜びと同時に、主の力によってみもとに行きたいと願ったのです。そして事実水の上を歩いた。しかし主イエスを信頼することより、強い風に心奪われ、溺れ始めた。水は、それ自体豊かなものであるけれど、同時に、不安定なものであり、揺れ動くものであり、わたしたちを脅かすものでもあり、ときには死と隣り合わせなるような存在であり、まさしく溺れ死ぬものでもあるのです。ペトロの心は、主に向かう心であると同時に、強い風にも、足元の水にも、気を取られ、溺れ始めたのです。

 主イエスはそのペトロに対して、「信仰薄い者よ」と言われた。信仰薄い、という表現は直訳としては信仰の小さい、という言葉です。これは大事な表現で、信仰がないのではない。不信仰なのでもない。ペトロは主が共にいてくださることを仰ぎ見て、その恵みを受けとめて、主の御許に行きたいと願い、歩み始めたのです。そこにペトロの信仰は確かにあるのです。しかしもう一方で、なぜ疑ったのか、と言われているように、強い風に気を取られ、心が揺れ動いたのです。聖書はそれを「強い風に気がついて怖くなり」と書いています。主イエスが呼びかけてくださっているということ、主が来なさいと呼びかけて、その主の力で事実水の上を歩き始めた、そのこと以上に強い風に気がつき恐れた、というのです。

 わたしたちも、信仰がないわけではない。あるのです。キリストの言葉を聞こうとしているし、事実聞いているのです。キリストが生きて働いてくださって、わたしたちに力を与えてくださることも知っているし、信じているのです。

 しかし、一方でこの世の波風の強さに打ちのめされ、心奪われるのです。そうはいっても現実はこんなに厳しい、ということに心もぎ取られていくのです。沈みかけていき、溺れていくのです。沈みかけている時、溺れかけている時、ペトロのように「主、助けてください」と主に向かって声を上げているでしょうか。

 溺れかけているのだから、必死になって藻掻いているとばかりは限らない。溺れている自分にも気づかず、沈んでいくこともあるのです。

 ペトロはここで、水の中に溺れそうになっている、しかし、現実の厳しさに溺れていくとき、気づかずにどんどん沈んでいくこともあるのです。

 水上歩行というのは今日の聖書箇所の中で、わたしたちの理解の及ばないところ。それはまさしく神の働きなのです。そしてペトロがたとえわずかであっても水の上を歩いたというのは、ペトロの力ではなく、まさしく神の力によるものです。しかし働いてくださる神の力よりも、強い風に心奪われるなら、沈んでいくのです。ペトロは、そこで自分の力で体勢を立て直そうとするのではなく、すぐに主に助けを求めている。主はすぐに支えのみ手を差し伸べてくださったのです。「信仰の小さい者よ、なぜ疑ったのか」弟子たちの乗った舟はすでに強い逆風のために漕ぎ悩み、揺れていたのです。強い風が吹いていたのです。主がおいでくださったのは、その強風の中で、揺らぎの中だったのです。そして何度も言うように、主が来られることで、波は鎮まったのではなかった。その中でペトロは主イエスのもとに歩き出した、にもかかわらず波の力に恐れをなした。それは主の力よりも、波の力に心が引っ張られているということであり、そのことを主はなぜ疑ったのか、と言われたのでしょう。

 しかし、主は信仰の小ささをここで否定したり、咎めておられるのではないのです。主イエスはこのマタイ福音書で「からし種一粒ほどの信仰があれば、」山を動かすこともできると言われています。小さな信仰でもいい。さらに言えば、疑う、ということがあってもいいのです。信仰は、信頼と同時に疑いが混じり合っているのです。「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい。」という父親の言葉、主イエスはその言葉を受けとめてくださる方なのです。

 信仰が小さいことも、疑うことも、わたしたちにはあるというだけでなく、そうでしかありえない、ということも事実なのです。そのことを受けとめたうえで、尚、「主よ、助けてください」とキリストに求め続けていけるものでありたいと願うのです。わたしの力ではなく、キリストの力によって、歩んでいけるように、祈り求め続けたいと思うのです。

 「そして、二人が乗り込むと、風は鎮まった。舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ。