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教会暦・聖書日課による説教

2024.11.3.聖徒の日礼拝式説教

聖書:テサロニケの信徒への手紙一4章13-18節『 いつまでも主と共にいる 』

菅原 力牧師

 2024年の聖徒の日を迎えました。わたしたちの教会にさまざまな形で連なり、繋がりを与えられ、地上の生涯を終えて、神の御許に召されていかれた方々を覚えつつ、神の御言葉に聞き、神の御心を示され、神をほめたたえ礼拝してまいりたいと思います。

 朗読された聖書箇所は、教会暦に基づく聖書日課で聖徒の日に読むよう示された聖書箇所です。これはパウロという人がテサロニケにある教会の人々に書き送った手紙の一部分です。テサロニケというのは、ローマ帝国の属州マケドニアの州都・首都で、ローマの総督府がおかれている大きな町でした。属州とはいえ、自由都市として一定の自治が認められており、さまざまな地域・国から来た人々が住んでおり、ユダヤ人も移民として多く住んでいました。パウロは紀元49年ごろ、このテサロニケを伝道旅行において訪れ、イエス・キリストの福音を宣べ伝えた。そしてここに、ユダヤ人はもとより、非ユダヤ人も混在するキリストの教会が形成され始めたのです。

やがてパウロはテサロニケを離れ、次の伝道地へと向かうのですが、離れた後も教会のことを覚え、ときには自分が行けなくても、信頼できる仲間であるテモテを遣わして様子を聞き及んでいました。テモテの報告を聞き、パウロはテサロニケの教会の人々が異教の神々の信仰の中で、主イエス・キリストの福音に堅く立って歩んでいる様子を聞き、大きな喜びを与えられると同時に、励ましを受け、神に感謝を献げるのです。と同時に、パウロはテサロニケの教会の人々が抱えている不安、悩みをテモテから聞き、そのことに対してパウロはメッセージを送るのです。それが今日の聖書箇所であります。

パウロがこの手紙を書いたのは紀元50年もしくは51年と考えられており、現存するパウロの最も古い手紙であります。パウロがこのテサロニケの教会から次の伝道に向かっておおよそ一年後、パウロは教会の一人一人の顔を思い浮かべながらこの手紙を書いたでありましょう。パウロはテサロニケにいる時、イエス・キリストの福音を宣べ伝えた。十字架と復活の主イエスを宣べ伝えたのです。その際、パウロは復活して神の御許に帰られた主が、再臨、再びやってこられることも語ったでしょう。そしてその時には、死者も復活することをも語っていたでありましょう。

 この手紙が書かれたころ、イエス・キリストが十字架にかかって死んで20年たっていないころですが、再臨の時、神の救いの完成の時は、もうまじかだという切迫感が初代の教会の中に濃厚にあったときなのです。信者たちは、自分たちが生きている間に終末の時は来ると信じていたのです。ところが、当然のことですが、テサロニケの教会の中にも、地上の生涯を終えて、召天する人たちが出てくるのです。主の再臨のときを生きて迎えると思っていた人々の中に、動揺とか不安が出てきたのです。では死んでしまった者は、どうなるのか、再臨の時、自分の地上にはいない家族は、愛する者はどうなるのか、という不安が信者たちの中に広がっていくのです。と同時に、死そのものに対する不安、イエス・キリストは死んでよみがったというのだが、わたしたちは死んで、どうなるのだ、という根本的な不安、それがテサロニケ教会の中に広がっていたのです。

 13節の文章、「兄弟たち、すでに眠りについた人たちについては、希望を持たない他の人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。」という言葉は、そのような教会の人々への文面です。眠りについて人たちとは、地上の生涯を終えた人々のことで、この人たちのことで、希望を持たない他の人たちのようには嘆き悲しまないために次のことをよくよく知っておいてほしい、というのです。

 愛する者が死んだ、深い交わりのあった方がなくなった、テサロニケの教会にはそのために悲しんでいる人たち、不安の中にいる者たちがいたのです。パウロの生きた時代のギリシヤ・ローマ文学の中には、そうした人々への言葉がつづられているものがあります。曰く、悲しみすぎないように、人間は必ず死ぬのだから、死は避けられないものだから、時間をかけてでも受け入れていくべきである。死んだ者は苦しみや痛みのない場所へ移されたのだから、安心していいのだ、なくなったものは天上からわれわれを見守ってくれているのだ、というような言葉が書かれている。死に対して自制的であること、理性的にそれを受けとめていくべき、という捉え方がそこで語られているのです。それは実は二千年後の今も、わたしたちの間で、流通している、使われている言葉です。

 しかしパウロはそういう言葉を語らない。彼は人間はどう死を受けとめていくべきか、とか、どういう自分自身の中での受容が必要なのか、というようなことは語らない。彼が語るのは、イエス・キリストの復活であり、それによって示された神の物語であり、その神の物語の中にあなたも既にあるのだ、ということ以外ではないのです。14節「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。」それがパウロにとってどんな時でも基点、基となる出来事です。「神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと共に一緒に導きだしてくださいます。」イエス・キリストが復活したという出来事は、わたしたち無関係の出来事ではない。神は同じにように、イエスを信じて眠りに就いた人々を、とありますが、これは協会共同訳聖書では「イエスを信じて」ではなく、「イエスにあって」眠りについた人たち、と訳しています。より精確な訳です。イエスにあって死んだ人たち、「出会って」というような意味ではなく、イエス・キリストに背負われて、と言っていい内容です。キリストの十字架という出来事に負われて死んでいった人たち、ということです。その人を神はイエスと共に導き出してくださるというのです。つまりイエス・キリストの死と復活は、わたしたちに無関係のこととして起こったのではなく、わたしたち一人一人をキリストと共に復活させてくださる、そういう約束としてのしるしの出来事なのだ、ということです。

 パウロは続く15節で「主の言葉に基づいて次のことを伝えます」と教会の人々に言います。ここでいう主の言葉とは、どれとどれ、ということではなく、主イエスがこれまでに語ってこられた言葉、という意味で、パウロが受けとめてきたことを宣べ伝えるのです。

 「主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。」主が来られる日、これが再臨ということですが、その日まで生き残るとパウロも考えていたようです。最初に言ったようにこの手紙が書かれたころ、こういう考え、つまり再臨の時まで死なない、というような考えが教会の中にあり、パウロ自身もそう受けとめていたかもしれない。後にパウロは時間の経過とともに、そういう考えから変わっていきますが、この時はそう思っていた。けれども、既に死んでしまった人々、その人たちより先に、わたしたちが復活するわけではない、と言っているのです。

 16節、17節は当時にユダヤ人の間で受け取られていた黙示文学、終末の時の様子を表現しようとするものなのですが、その表現で再臨の際の様子が描かれています。「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降ってこられます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っているものが、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。」その時合図の号令がかかり、大天使の声とともに、ラッパが鳴り響く。それは真の王の到来を宣言するラッパの響き。そして再臨の主がやってこられる。この再臨の主と、復活させられたものが空中で出会うというのです。空中で出会うということは、地上的ではないということです。再臨の主は地上の支配者、地上の王となる方ではなく、神の国の支配者としての主がやってくるということです。この主が来られることで、キリストに在って死んでいた者たちがまず復活し、続いて、今地上の生を生きているわたしたちが彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主イエスと出会う、というのです。包まれて、と訳されている言葉は「掴まれて」という言葉で、わたしたち一人一人が、地上の歩みを終えて死に掴まれていくのに対して、キリストに掴み取られて死から引き上げられていく、というのです。

 黙示文学というのは、現代人のわたしたちにはわかりにくいことも多いのですが、大事なことは、一つ一つの表現も興味深いのですが、そこに流れている力に触れていくことが大事なのです。ここで語られているのは、再臨の時に現わされていく神の力、キリストの力です。わたしたちが何かをするというのではない。キリストがやってきてくださって、先に眠りについたものも、今生きている者も、掴み取って、引き上げ、主と出会わせてくださる、というのです。ここで力を示し、生きてい働くは、神であり、そこで発揮されるのはキリストの力なのだとパウロは語るのです。

 「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」

 パウロはテサロニケの教会の人たちが、死の力の前で不安や動揺の中にあること知っていました。死んだら、すべては終わりなのではないか。死によって生きている者と死んだ者とは分断され、どこにいるのか、いないのか、わからない死者をどう受けとめたらいいのか。そういう不安の中にあることを知っていました。

 しかし、パウロはその一人一人に向かって、イエス・キリストの福音を語る。イエス・キリストの復活を語り、この復活は、わたしたちと無関係のものではなく、やがて神によって与えられる再臨の時に、死んだ者も、地上にある者もすべて神によって掴まれ、引き揚げられ、キリストと出会うという神の救いのわざを約束を語るのです。そしてわたしたちはこの神の約束の物語の中に、一人一人置かれているからこそ、その再臨のときを、待ち望むことができる。死んだ者も、神の御腕の中にあり、生きている者も神の御手の中にある、だから安心して、神の御手に委ね、その時を待ち望むのだ、パウロはそう語っているのです。「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」わたしたちにとって、どんな時も変わらぬことは、キリストがいつでも、いつまでも共にいてくださるということ、そのことを知っておいてほしい、とパウロは語り、「ですから、いま述べた言葉によって励まし合いなさい」とテサロニケの教会の人々に書き送ったのです。