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教会暦・聖書日課による説教

2024.11.24.聖霊降臨節第28主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書15章29-39節『 繰り返される主のわざ 』

菅原 力牧師

 今日の聖書箇所を読んで、これはすでに主イエスによってなされたわざの繰り返しだ、と思われた方は多いでしょう。確かに主イエスはこれまで病人の癒しを繰り返しなさってこられました。何度も何度も、と言ってもいい。また大勢の人に食べ物を与えるいわゆる供食の奇跡は、14章にも記されていた奇跡と重なるものです。

 どうして同じような主のわざが繰り返し福音書には語られているのだろう、という素朴な疑問を持たれる方もいるでしょう。もちろん主イエスがこのような癒しのわざをたびたびなさったこと、大勢の人々に供食の奇跡を一度ならずなさったということが、この記述の背後にある、ということは容易に想像がつきます。繰り返し行ったこと、それを重複を恐れず書きとどめているのだろう、ということです。それは当然あることです。人々の記憶の中にも主イエスのなさったことが、一度ならず、二度三度と重なっていった、人々もまたその記憶を折り重ねていった、ということでしょう。

 しかしそれだけではないのです。

 主がなさったことを時系列に書き記していったら、こういうくり返しがあった、というだけのことではない。マタイ福音書を書いたマタイは、先に福音書を書いていたマルコによる福音書を参考にしつつ、自分なりに福音書を再構成しました。全部マルコの順序に従う、というのでもなく、ときには自分の持っていたマルコにはない伝承を基に、マタイ固有の福音書を書き進んでいきました。それは言うまでもなくあたり前のことで、イエス・キリストというただ一人の方を見つめていても、どこにアクセントを置くかということは書き手によって微妙に、ときにははっきりと違うのです。もちろんイエス・キリストの十字架と復活という根本の出来事は中心にあることはマタイもマルコも同じなのですが、その描き方も、イエス・キリストを伝えるその伝え方も、一人一人みな違うのです。そこに聖書の中に四つの福音書がある意味もあるのです。

 マタイがこの福音書を書いたとき、マタイは形成されつつあったキリスト教会の中にいました。ユダヤ教ではなく、生まれて歩みだしていた初代キリスト教会の中にいました。当然、その教会は大きな困難に直面していました。イエス・キリストを十字架つけた勢力があるユダヤ教の只中で伝道しているのですから。教会の中にはユダヤ人も多くいましたが、当然異邦人もいました。マタイはその教会の中にいて、イエス・キリストの伝道の歩みをつづけながら、この福音書を書いていました。その時、マタイにとって、そして教会の人々にとって、例えば病人を癒される主イエスの出来事は、くり返しくり返し聞いて、そこで何かを受けとってきたのではないか、と思うのです。

 どういうことかと言えば、マタイの教会の人々は、この主イエスのなさったわざをただ過去の出来事として、かつてこういうことが起こった、というだけでなく、今を生きる、主の福音を宣べ伝える教会が、今ここで主から与えられる経験として受けとっていったということです。

 29節には、主がガリラヤ湖の畔(ほとり)に行かれ、小高い山に登り座っておられると、そこに大勢の群衆が体の不自由な人たち、病人を連れてやってきたことが報告されています。足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口のきけない人、いろいろな人が主イエスのもとにやってきたのです。主イエスはこの人たちを癒された、とあります。それはその人々にとってどれほどの喜びだったか。新しい人生の始まりと言ってもいい出来事だった。

 マタイの教会の中には、この主イエスのわざを見聞きして、イエス・キリストの力に驚くと同時に、自分自身もキリストの福音の言葉に聞いて、力を与えられ、新しい人生の始まりを経験した人々がいたのです。その経験を重ね合わせて、受け取った人たちがいた。マタイもその一人だったのでしょう。

 それは、マタイの教会が、イエス・キリストの福音を宣べ伝えながら、自分たち自身が主イエスによって癒され、力を与えられ、自分の目でしっかりとものが見えるようになり、今在る現実を受けとめながら、神の約束される将来を見つめながら生きることができる、自分の罪が赦されていることを知らされ、キリストに背負われていることを知らされ、新しい人生の歩み、キリストに負われて生きる歩み、そういう自分たちの経験と、この伝え聞く出来事とを重ね合わせて受けとめていった。

 だから何度でも何度でも、この癒しの出来事をマタイの教会の人たちは聞いたのです。教会の中で繰り返しこの物語は語られ聞かれたのです。

マタイは、自分の今いる教会の困難を生きている人でした。ユダヤ人伝道も、異邦人伝道もそれぞれに難しさを抱えていました。いろいろな圧力もかかってきていました。しかしそれでも、マタイの教会が伝道をつづけたのは、イエス・キリストの福音のゆえでした。イエス・キリストの福音に聞いている一人一人が、福音によって癒され、力を与えられ、自分の頑張りや努力ではなく、福音に活かされて歩む経験を重ねていったからなのです。31節に「群衆は、口のきけない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目が見えない人が見えるようになったの見て驚き、イスラエルの神を讃美した」とありますが、形は違っても、マタイの教会の人々も、神を讃美する経験をしてきたのです。

 32節以下に記されているのは、14章に記されていた供食の出来事と、深く重なり合うような出来事です。このような大勢の人々にパンを与えるという奇跡を主は人々とともに経験されて生かされた。そしてマタイの教会の人々もこの出来事を自分たちの経験に引き寄せて、深く受けとめていったのではないかと思うのです。

 マタイの教会の人々の中には、空腹の困窮を知っている人たちもいたでしょう。満たされる、ということが当たり前ではない人々もいたでしょう。心の飢え渇き、魂の飢え渇きを覚えていた人もいたでしょう。そして自分自身が満たされることを深く望んでいた人々は少なくなかった。だからこそマタイの教会に集い、イエス・キリストの福音に聞きたいと願っていたのです。その人々、彼ら彼女たちが、このマタイの書きとどめている五千人の供食、四千人の供食のこの出来事を読んで、何を受けとめていったのか。それはとても端的なこと、イエス・キリストによってわたしたちは満たされるのだ、ということです。37節に「人々は食べて満腹した」とあります。そして14章20節にも「すべての人が食べて満腹した」とあります。この「満腹」という言葉がとても心に残るのです。満腹ということがこの二つの出来事に共通している。これが大事なのです。それはイエス・キリストによってこそ、わたしたちは満たされるということ。わたしたちを真に満たしてくださるのはキリストなのだ、ということです。マタイの教会の人々は、そのことを受けとめていったのです。キリストによって充たしていただく、主イエスによって充たされる、そのことをマタイの教会は経験してきた。

 しかもこの供食の出来事は以前も申し上げたように、初代のキリスト教会で行われていくようになる聖餐を思い起こさせるものだった。もちろんこの供食のときには、主イエスは十字架による血と肉のことを語っておられるわけではありません。それは最後の晩餐の時に弟子たちに示されていくものです。しかし、マタイの教会の人々は、この供食の出来事に聞くたびごとに、主イエスが自らパンと魚を取り、主イエスが裂いてくださって、弟子たちにお与えになる、そして弟子たちが群衆の一人一人に与える、その主からいただく恵み、主によって充たされる恵み、主によっていのちの糧を与えられる喜びを、自分たちの経験と重ね合わせていったでしょう。

 キリストはわたしたち飢える者、渇く者、自分の内に満たされない、空を抱える者、自分自身に疲れを覚えているものに、いのちの糧を与えて、わたしたちを満たしてくださる。わたしたちはこの方によって与えられるものを感謝して受けて、それを食べ、この方の恵みで満たされていけばいい。

 それだけでない。マタイの教会の人々が受けとったのは、この出来事を聞き、この出来事に触れるたびごとに、今自分たちの受けている聖餐の恵みを豊かに受け取っていったのです。

 キリストはわたしたちをまこと満たすため、いのちの糧なるパンと魚を与える、ということにとどまらず、わたしたちのためにご自身をささげてくださった。ご自身の身体と血とをわたしたちのために献げて、霊肉共に満たしてくださった。

 わたしたちはこの方においてまこと満ち溢れるという経験をし、今も経験は続いている。マタイの教会は、そのことをこの聖書箇所を読むたびに新たに受けとめていった。マタイは、そのすべてを含めて、福音書において主イエスの御わざのくり返しを、喜びと感謝を持って書き記した。そしてそれをすべての教会の、すべてのイエス・キリストを信じ生かされていくものに読んでほしいと願った。

 イエス・キリストの癒しを受けながら、イエス・キリストによって充たされ、充ち溢れる経験をこの福音書を通して、ともに経験していきたいと心から願ったのです。