教会暦・聖書日課による説教
2024.12.8.アドヴェント第2主日礼拝説教
聖書:ルカによる福音書1章39-56節『 わたしの魂は主をあがめます 』
菅原 力牧師
今朝ご一緒に聞きます聖書箇所は、マリアへの受胎告知に続く場面です。
マリアがエリサベトを訪問し、その後マリアが神をほめたたえる讃美の言葉を語った、有名な箇所です。まず最初のエリサベト訪問の箇所ですが、ここを何度も読み、その形態を眺めていて気づくことがあります。一つは、「挨拶」という言葉です。この短い場面に三度も出てくるのです。前回の箇所、天使ガブリエルのマリア訪問のところでも出てきた言葉です。この「挨拶」って何だろう、という疑問が出てきます。天使がマリアを訪問して、言葉をかけた、その言葉に戸惑い、この挨拶はいったい何のことかと考え込んだ、というのですが、そのマリアが考えこんだ「挨拶」と通ずるものです。
マリアは天使の言葉を受けとめて、急いで山里に向かいザカリアとエリサベト夫妻の住むユダの町に行きました。なぜ急いだのでしょうか。マリアはエリサベトに会うと、挨拶をしました。こう読むと、わたしたちが普段思う、日常の挨拶を交わした、とも読めます。しかし、続く41節には「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。」とあります。どうしてなのでしょう。さらに不思議なのは、エリサベトはマリアからの挨拶を受けただけにもかかわらず、聖霊に満たされて、とあるのです。いったいこの挨拶は何だったのか、と思わないわけにはいかないのです。しかも、エリサベトはマリアへの言葉の中で、「あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました」と言っています。たまたま胎児が激しく動いた、ということではなく、挨拶の言葉を聞いたときに胎児は喜びおどったというのです。いったいこの挨拶はどういう挨拶だったのか、疑問に思わないわけにはいかない。
ルカによる福音書の10章に弟子たちを伝道に派遣するときの主イエスの言葉が記されています。その中で主はこう言っておられる。「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるならあなた方の願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなた方に戻ってくる。」ここで言われている平和があるようにとは、皆さんもよく知っている「シャローム」という言葉、平安あれというユダヤの挨拶の言葉です。しかしそれはわたしたちが思う単なるなる挨拶ではない。なぜなら。シャロームという言葉は、主語は神だからです。わたしがあなたに平安があるように、と願うことではない。神があなたに平安を与えてくださるように、と神の平安、神の平和を祈るのです。だからその家が神に背き、神を退け、神に背を向けるなら、そのシャロームはその家にとどまることなく、弟子たちに戻ってくる、というのです。
マリアは天使ガブリエルの訪問を受けて後、急いでエリサベトのもとに向かった。それは自分が天使の訪問を受けたことを早く知らせたかったからではないでしょう。そうではなく、エリサベトの妊娠も、マリア自身が子どもを授けられることも、共に神の働きによるもの、神の恵みのわざによるものだということ、その神の祝福を天使からの挨拶を受けた自分の口で、エリサベトにも、伝えようとしたのです。神からの祝福を、平安を伝えようとした。少しでも早く。それこそがここで語られているマリアの挨拶なのです。この挨拶の真の主語は神さまです。だから胎内の子もおどるのです。だからこそエリサベトは聖霊に満たされるのです。
聖霊に満たされるとはどういうことなのでしょうか。ルカがここで書き記そうとしているのは、さまざまな現象、出来事の背後に隠されていた意味、意義が自分を超えた力によって悟らされ、喜びに満たされた状態のことです。
エリサベトも、マリアもまことに不思議な、驚くべき経験を与えられてきた人たちです。その中で二人は、これは人間による出来事なのではなく、神の働きによって与えられた出来事だということを悟らされていくのです。神が働いておられる。神の恵みと祝福の中にある、マリアはそのことを挨拶に込めるのです。もちろん、先ほど10章の言葉を紹介したように、そのシャロームの挨拶を聞いても、受けとめない者もいるのです。しかしマリア自身、その神からの祝福を受け、信じ、そこにおいて生きようとしているのです。エリサベトもまた自分自身において働いてくださっている神の恵みを受けとめ信じ、生かされている。エリサベトが聖霊に満たされたとは、そのような神の祝福の充満を我が身で感じ受けとめたということに他なりません。そしてエリサベトはマリアにこう語ったのです。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。わたしの主のお母様がわたしのところに来て下さるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」まさしく聖霊に満たされた、信仰に溢れたエリサベトの言葉です。そして彼女の言葉は、自分自身への言葉にもなっているのです。
マリアはエリサベトの言葉を受けて、神を讃美します。このマリアのほめたたえの詩、韻文、うたはマグニフィカート(聖書のラテン語訳の冒頭の句をとって)と呼ばれているものですが、二つの部分からできています。47節から50節までと、51節から55節までです。最初の部分、ここには「わたし」が繰り返し出てきます。ところが後半には、わたしは出てきません。つまりこのほめたたえの詩は、自分自身のことをまずうたい、そして人々へと広がっていく詩なのですが、自分自身をうたうと言っても神に愛され、神によって恵みを受けたわたしを語るのです。まったく同様に、後半では神によって恵みを受ける人々のことがうたわれていくのです。そのようにして神をほめたたえる詩なのです。
わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。崇めるという言葉は、大きくするという意味の言葉です。神をいよいよ大きなもの、偉大なものとします、とほめたたえるのです。
身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。小さな存在にすぎないこのわたしに目を留めてくださり、恵みを与えてくださったからです。
今から後、いつの世の人も、わたしを幸いなものというでしょう。代々の人々がわたしのことを、幸いなものと呼ぶでしょう。なぜなら、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる人に及びます。
これがマリアがわたしを通して語る神の恵み、神の働きへのほめたたえです。この詩の動詞形に注目すると、最初の47節崇め、たたえます、が現在形。続く48節目を留めてくださった、が過去形。48節後半幸いなものというでしょう、未来形という構成なのです。つまりマリアは、神の働きを受けとめ、今神をほめたたえ、これから後も、人々はわたしを幸いなもの呼ぶでしょう、と未来を語る。マリアはこの自分において、過去現在未来と続く神の御わざ、栄光をほめたたえるのです。
そして51節からは、主はその腕で力を振るい、思い上がるものを打ち散らし、権力あるものをその座から引き下ろし、身分の低いものを高くあげ、飢えた人を良いもので満たし、富める者を空腹のまま追い返されます、とうたうのです。神の御わざ、御力によって、思い上がるもの傲慢なものが砕かれ、力あるものが引き下ろされ、小さく低いものがあげられるというのです。ここで語られていること、そこには、小さく低い、一人の罪人が赦され活かされていく、ということであると同時に、終末の光景につながるものがあります。神による最後の審判の情景へと繋がるものです。マリアがどうして、こういう詩をうたうことができたのか、不思議です。彼女は終末という言葉も、最後の審判もまだ知る由もなかったでしょう。しかし、彼女はこの詩の前半で、過去現在未来へと続く神の御わざをほめたたえていました。未来のことはよくわからずとも、これまでに与えられてきた神の恵み、導き、神の御わざにしっかりと目を注ぐことで、神の約束される将来は、救いに満ちたものだということははっきりとわかるのです。事実51節からの詩は、動詞はすべて過去形で語られているのです。
その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対して永久に。ここで語られるイスラエル、アブラハムの子孫とは、神の恵みを受けとり、神の働きを信じ、神によって活かされる者のことでしょう。マリアは、イエス・キリストの降誕ということを我が身において知らされ、その神の御わざを我が身を持って受けとめ、その御業において自分が生かされていくことを感謝して歩みだした人です。同時にマリアは、その恵みが、神の働きが自分だけでなく、エリサベトも包み込み、神を仰ぎ見る人々をすべて包み込む、大きなものであることを受けとめているのです。
アドヴェントのとき、わたしたちもまた、このマリアの賛歌の中に生き活かされているものであることを心新たに受けとめていきたいと思います。