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教会暦・聖書日課による説教

2024.12.15.アドヴェント第3主日礼拝説教

聖書:ルカによる福音書1章57-80節『 曙の光、上より臨み 』

菅原 力牧師

 クリスマスの出来事を書き記した聖書箇所はそう多くはないので、毎年アドヴェントやクリスマスの時期に、同じ聖書箇所を読む、ということは当然あり得ることで、何度も何度も同じ聖書箇所に聞いているということにもなります。しかし不思議なことに、毎年そこに書かれている出来事に、新たに眼開かれるということが起こってきます。今までこのみ言葉から何を聞いてきたのだろう、と思うほどに、新たなみ言葉の力、導きに触れるのです。

 今朝ご一緒に読みますルカによる福音書の1章57節から80節にはヨハネの誕生と、その誕生の出来事の中でうたったザカリアの賛歌が記されています。

 「さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。」57節はそう始まるのですが、この男の子の誕生によって人々の間で波紋が生まれていきます。まず、近所の人々や親類の人たちは、これまで子どももなく、年をとっていたエリサベトに子どもが生まれたことを主の慈しみとして喜び合ったのです。そしてその人たちは、八日目にやってきて、ユダヤの慣習に従って、生まれた男の子に割礼をほどこすとともに名付けに自分たちも立ち会おうとやってきたのです。名付けと言っても多くの場合は、男の子の場合、父と同じ名前、ということが少なくなく、皆はザカリアと名付けるのだろうと思い込んでいました。ところがエリサベトは「名はヨハネとしなければなりません」とはっきり言って周囲の人たちを驚かせるのです。親族には誰一人ヨハネという名の人はいないからです。人々は父親にも当然尋ねる。するとザカリアは字を書く板を用意させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々はさらに驚くのです。するとたちまち口のきけなかったザカリアの口が開け、舌がほどけて彼は神を讃美し始めたのです。人々は驚きではなく、怖れを感じた、というのです。そしてこのことはユダの山里中で話題になったというのです。

 こうした一連の出来事がヨハネの誕生に始まり起こった、と記されています。しかしよく読むと、これらの出来事は目で確認できる、目で見、耳で聞いた出来事であって、これは起こった出来事の羅列なのです。ルカ福音書がここで伝えようとしているのは、これら一連の出来事の背後には、別の働き手がいるということなのです。この働きは目には見えず、耳にも聞こえないので、注意を怠れば見過ごされてしまう。たとえば64節の言葉は直訳すれば、「すると彼の口はたちまち開かれた」とあって、受動形で書かれています。つまりザカリアの口を開いた方がいる、ということです。ザカリアの口が開いたのは、偶然ではなく、ザカリアの努力によるのでもなく、神が働いている、と福音書は語っているのです。ルカはそのことをこそ、ここで伝えたかった。それはザカリアとエリサベトだけのことでなく、クリスマスの出来事全体に及ぶものです。問題は、目に見える表面の出来事の奥を見ることができるかどうかにかかっている。けれども誰でも一度に奥を見る力が与えられるわけではない。

 人々ははじめ、エリサベトが子どもを産んだことを喜んだとき、神の恵みを受けて高齢出産したこと、よかったよかった、というだけの話だったかもしれない。だがエリサベトもザカリアも親族にいないヨハネという名をつけることに、少しずつ戸惑いながら驚いている。何を驚いているかと言うと、この出産において、二人は何か背後に働く力を感じているのではないか、という驚きの予感のようなものです。さらに続いて、ザカリアの口が開いた。そしてザカリアは開かれた口で、口がきけなくなったことへの恨みを言うのではなく、神を讃美し始めるのです。人々は、ザカリアの口が開かれたのは、背後にあって働いてくださっている方がいる、ということをある程度感じて始めていく。だから怖れを感じ始めるのです。

 わたしたちも、この人々とどこかで重なっており、ある出来事が起こるとそこに神の恵みだとか、導きということを実は案外簡単に言うし、感じてもいる。だがだからと言って、その出来事の奥で、神がまこと働いてくださっている、ということを受けとめているかどうか、実は大いに疑問なのです。実際、神の導きと言いつつも、自分たちの思いの内に進めていこうとすることは少なくないのです。親族の人々も、知らない名前をつけようとするエリサベトやザカリアに躊躇を覚えるのです。自分たちの考えと違えば違和感を覚えるのです。しかしその人々がザカリアの口が利けるようになり、神を讃美し始めると、エリサベトの妊娠から始まる一連の出来事に働く方の力を感じ始めて、おそれたのです。この「怖れた」ということは的確な表現だと思います。神の恵みだとか、神の導きだとか言っている時には、感じていないもの。神が働いていることへの怖れですよ。

 このことがユダの山里中で話題になったというのです。「聞いた人々はみなこれを心に留め『いったい、この子はどんな人になるのだろうか』と言った。この子には主の力が及んでいたのである。」この最後の文章はルカが書き記したものでしょう。とすれば58節で主がエリサベトを大いに慈しまれた、とある主が囲い込むようにしてこの文章が記されていることがわかります。主が始めたわざなのです。主が働いておられるわざなのです。しかし、人々はそれをはじめから知るわけでもなく、知ろうとするわけでもない。つまり神が働いておられることはわかっていない。そして自分たちの目で見ているものに、自分なりの説明をつけて、現実を見ている。だがルカ福音書がここで書き記していることは、はじめからこれは神の業なのだ、ということです。祭司であったザカリアですら、天使の言葉を信じなかったのです。つまり神の働くわざがこれから起こるということを。そして今、この夫婦は、神が自分たちの現実に介入して、神が働いてくださっているということを信じ始めているのです。

 68節からはそのザカリアの賛歌なのですが、この79節まで続く賛歌、実は二つの文章なのです。68節から75節まで、実に長いワンセンテンス。一つの文章。

 ここでザカリアがうたっていることの骨子は、「われらのために救いの角を僕ダビデの家から起こされた」救いの角というのは、救いの力という意味ですが、その救いの力とは、71節にある「それは、我らの敵、すべてわれらを憎む者の手からの救い」ということです。神が訪れたのは、敵の手に落ちていた民を救うため、贖うためだ、というのです。敵の手とは、われわれを苦しめているもの、われわれを拘束しているもの、罪であったり、困難であったり、自分自身だったり。その全部です。敵が敵であるのは、神を否定し、神からわたしたちを引き離そうとするものがそこにあるからです。そのすべての力が敵なのです。そしてわたしたちはしばしば、自分が敵に拘束されていることすら、見失っている。たとえば、今日の文脈で言えば、ザカリアも神が生きて働いていることを見失っていた。それは彼が敵の力に拘束されているということなのです。その敵の力からわれらを救うため、救いの角をダビデの家から起こされた、とザカリアはうたうのです。

 そして76節からは、幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれると、ヨハネのことを預言するのです。「主に先立っていき、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。」とヨハネの預言活動を預言するのです。

 そして78節から救い主のへと目を向け、「これはわれらの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所から曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の影に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」あまりにも有名なザカリアの賛歌であり、預言であります。救いの角、救いの力、救い主が与えられたことは、神の憐れみの心による。「この憐れみによって、高い所から曙の光が我らを訪れ」るというのです。曙の光とは、夜明けに空が白み始めることの光のことです。日本語には黎明とか、東雲という言葉がありますが、この曙の光、ということで思い出される言葉があります。それは、ある方が実際に曙のかすかな光を受けときに、逆にただ光の射さない真っ暗闇の時よりも、今いる場の暗さを感じたという話です。矛盾するように聞こえるかもしれないのですが、光が差し込むことで、暗さが際立つということです。このザカリアの言葉、これはおそらく実体験から来るレトリック、修辞的な表現なのでしょう。イエス・キリストの誕生という曙の光によって、この世界が暗闇と死の影の中にあることが際立つのです。キリストという光によって、わたしという存在がまこと罪人だということが鮮明になる、そのことを示す表現。だからこれは曙の光でなくてはならないのです。同時に、この表現は、遥かに終末の光をもイメージさせるもので、ザカリアが意識していたかどうかにかかわらず、この曙の光は、イエス・キリストの誕生の光であり、再臨の光として受けとられてきたのです。確かにわたしたちは暗闇と死の影の中に座しているのです。罪と死の暗闇の中に座しているものと言えるのです。しかしそれはキリストの光の中で、はじめてわかること。自分がいかに深い罪人であるかということも、神からのいのちを受けていない死の中にあるものか、それはすべてイエス・キリストの光の中でわかることであり、同時にイエス・キリストの光の中でその救いを受けとるものなのです。それがまさに、敵の手からわれらを救う、ということに他ならないのです。

 ザカリアはエリサベトとの間に、子どもが生まれたというその出来事の中で、神の働きを知る人になりました。神がこの自分の現実に介入して、生きて働き、わたしたちを導くことを事実としてい知る人になりました。そしてその中で、わが子ヨハネの役割を知らされ、そのヨハネが先立ち、整え、知らせる救い主こそ、我らをそのすべての敵の手から解き放ち、贖い救い出す救い主であることを知らされた。神がこの世界に生きて働いてくださっている、その恵みの事実を知らされたのです。

 アドヴェント、そしてクリスマスのこの時に、わたしたちも生きて働き、わたしたちのこの世界で救いのわざをなしてくださる神を信じる者と、させられていきたいと願うのです。