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教会暦・聖書日課による説教

2024.12.22.降誕祭主日礼拝式説教

聖書:ルカによる福音書2章8-20節『 救い主 生まれたまえり 』

菅原 力牧師

 2024年の降誕祭の主日を迎えました。このクリスマスの喜びの日に、わたしたちは、今日また改めてイエス・キリストの降誕の出来事に聖書から、丁寧に聞いていきたいと思います。

 ルカによる福音書の2章、ここにはイエス・キリストの誕生の出来事が記されています。しかし、読めば読むほど、不思議なというか興味深いことに気づかされていきます。今日ご一緒に読んだのは、2章の8節から20節ですが、いうまでもなくこれは1節から7節に続く聖書箇所です。1節から7節に、イエス・キリストが誕生されたその時の歴史的な背景や、住民登録があったことなど書かれて、主イエスがお生まれになったことはごく簡潔に「彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」、とあって、マリアとヨセフの気持ちや思いなどに触れず、誕生の事実を記しています。

 さてその出産の場所からどれだけで離れていたのか、場面は急に野宿していた羊飼いたちがいる場所に変わるのです。そしてこの羊飼いの人々に主の天使が現われ、キリスト降誕の出来事を告げるのです。不思議だと思うのは、なぜ天使は、マリアに現れずに、場所的にも離れていて、しかも何の繋がりもない羊飼いたちに現れたのか、ということです。わたしたちは今、聖書のテキストにおいて、この二つが連続して書かれているので、あまり違和感なく読む人もいるかもしれませんが、この二つの場所の間には、この両者の間には何の関連性もない。異和感そのものです。確かにマリアは、身ごもって男の子を産むという知らせを天使から聞いていたのでした。その時天使は現れた。しかし出産にあたっては天使は現れず、天使は遠く離れた場所の羊飼いに現れ、マリアの出来事の意味を語るのです。これはいったいどういうことなのでしょうか。たとえばマタイによる福音書に登場する博士たち。彼らは星の研究をし、救い主の誕生を待ち望んでいた。そして遠い国からはるばる旅してきた。そこには内的なつながりがあります。

 しかし羊飼いたちはそうではない。羊飼いたちにすれば、天使の登場はあまりにも唐突。突然。わけのわからない出来事です。たくさんの羊たちを連れて牧草地を求めて転々とする生活。そして野宿に継ぐ野宿。羊飼いたちの生活は、貧しく厳しい生活だった。その生活の中で突然天使が現われ、「今日ダビデの町であなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」という告げ知らせを聞くのです。これは突然の知らせというだけでない、ものごとの核心そのもの、クリスマスの出来事の核心を伝える直球中の直球、ドストライクのボールがいきなり投げ込まれてきた、ということなのです。そしてそのしるしは、「布にくるまって飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子」これがしるしであるというのです。実に不思議な、しるしです。そして続いて天の大軍が現れ、神を讃美して、天に去っていったのです。

 羊飼いたちは、この出来事を体験して、「あー驚いた」と言ってそのまま眠ったわけではありませんでした。不思議な光景だったね、と互いに言い合って、一生に一度あんな光景が見れて幸せだったね、冥途のいい土産になる、と言って野宿を継続したわけではありませんでした。なんと、その天使の言葉を聞いて、語られた救い主が生まれた場所、ダビデの町ベツレヘムへ、そのまま出かけたのです。つまりそれは、神の言葉に聞いたことを思い出にするのではなく、それによって歩みだす言葉として聞いたということです。これは大胆な行動です。文面から察する限り、羊を連れていくことになっただろうと思います。

 そして羊飼いたちはこういうことを言うのです。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」この言葉なのですが、少していねいに読みたいので、直訳してみますと、「主がわれわれに知らしめたもうところのすでに起こったレーマを見に行こう。」少し理屈っぽく聞こえるかもしれませんが、ここにルカの大事な表現があるので、ていねいに見ておきたいと思うのです。主がわれわれに知らしめたところ、つまり救い主がお生まれになったという告知・告げ知らせです、そしてそれはすでにもう起こっている、現実となっている、そのレーマを見に行こう、というのです。レーマというのは、ギリシャ語そのままなのですが、このレーマという言葉は「ことば」という意味と「出来事」という意味がある言葉で、ルカはこの言葉をよく用います。ギリシャ語で他に言葉を表す言葉はいくつかあるのですが、ルカ福音書にはレーマという言葉がよくでてきます。これは敢えて訳せば、出来事になる言葉、出来事に具体化していく言葉、と言ってもいい言葉です。例えば1章でマリアが天使からの言葉を聞いたとき、最後に天使は「神にできないことは何一つない。」という言うのですが、その際のできないことという「こと」はレーマなのです。つまりできないことは何ひとつないと訳されていますが、できない言葉は何一つない、という訳も可能なのです。というか明らかにルカその両義を含んで書き記している。そしてそれに対してマリアは「お言葉どおり、この身になりますように」と応えているのです。つまり神の言葉が天使を通して語られた、その言葉が具体化しないことは何一つない。その語られた言葉は必ず出来事となる。マリアはこの自分がその神のレーマの通り、レーマにおいて用いられ、この身においてその言葉が出来事となりますように、と応えたのです。レーマ(言葉・出来事)が自分の外にあるのではなく、自分もその出来事の中で用いられ活かされ、その出来事において歩めますよう、と言っているのです。

そして今ここで羊飼いたちは、そのレーマを見に行こうと言っているのです。天使が語った言葉、その言葉は神の言葉であって、何度も言うように、出来事となって具体化する言葉、出来事となっていく言葉です。出来事という意味は、言葉が一つの現実になるということにとどまらず、キリストが降誕し、そこからさまざまなことが起こって出来事となっていく、そう言う一連のことが含まれています。

羊飼いたちは言うまでもわたしたちと変わらない人々。しかし羊飼いたちはこのレーマを信じて生きていた。神が語る言葉、それは出来事になる言葉であり、それはわたしに無関係なものではなく、わたしに関わる出来事だということを。羊飼いたちはベツレヘムに行き、マリアの所在を突き止め、飼い葉おけに寝かせてある乳飲み子を探しあてたのです。

そして羊飼いたちは、「この幼子について天使たちが話してくれたことを人々に知らせた」というのです。羊飼いたちが知らせた天使が話してくれたこと、このことは「レーマ」です。でもいったいこの人々とはだれなのか。文脈からはわかりません。飼い葉おけに寝かされている赤ちゃんを見に来た近所の人なのかもしれない。でもこの人々には、このレーマはわからなかったのです。「聞いた者たちは皆、羊飼いの話を不思議に思った。」と聖書は記しています。わたしはこの不思議に思いよくわからなかった人たちの気持ちはよくわかる。この人たちはただ赤ちゃんの誕生を喜んでいる人たちだった。その人たちにすれば、天使の言葉と、今目の前にいる赤ちゃんとはつながらない。

「しかしマリアは、これらのレーマをすべて心に納めて、思い巡らしていた。」マリアはあの日、自分に語られた天使の言葉、「マリア、おそれることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい、その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」という言葉を、そして羊飼いたちが告げてくれて天使の言葉を出来事となる神の言葉として受けとめ、反芻し、思い巡らしいたのです。

 クリスマスの出来事の根本には、神の言葉、つまり神の御意志、神の御心が出来事になる、という言葉・出来事レーマがあります。マリアは、エリサベトやザカリアや羊飼いと共に、この神の語られた言葉が出来事となってこの世界の中で生きて働くという、その最初の歩みに出会い、それを信じて歩み始めた。その際信じる信じ方は、たんに自分の外である出来事が起こったということを承認する、というような信じ方ではなかった。お言葉どおりこの身になりますように、わたしという存在もあなたの出来事の中で活かされあゆんでいけますように、出来事の中で歩んでいけますように、と応答したのです。羊飼いたちもまた、このレーマを聞き、この言葉によって歩みだしたのです。天使の言葉は驚くべき言葉で、たんにマリアが赤ちゃんを生むということだけを伝えたのではなかった。その支配は終わることがない、永遠に続く。そして羊飼いが聞いたのは、今日あなた方のために救い主がお生まれになったという言葉でした。この神の言葉は出来事となり、この世界の中で、具体化していく。今日生まれた救い主イエス・キリストの御支配は、永遠に続くのです。そして事実、2000年たった今も、天使の言葉は出来事となって、わたしたち一人がその出来事の中で生き活かされ、その出来事中で歩む、そのような言葉として生きているのです。

「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使たちの話した通りだったので、神をあがめ、讃美しながら帰っていった。」わたしたちも羊飼いたちのように、天使の言葉に聞き、この言葉の中で歩み始めていくものとなりたいと思います。