教会暦・聖書日課による説教
2024.12.29.降誕節第1主日礼拝説教
聖書:マタイによる福音書2章1-12節『 東方の学者たち 』
菅原 力牧師
2024年の最後の主日を迎えました。と同時に今日はクリスマス後の最初の主日、降誕節第1主日でもあります。
今日の聖書箇所には主イエス降誕の際のことが描かれています。そこで対照的な人物像が描かれています。一方は、東方から来た学者たち。他方はユダヤの王ヘロデ。この両者がまことに対比的に、鮮明に描かれています。
学者たちというのは、占星術の学者とありますが、原文には占星術という言葉はなく、ただ学者とあります。おそらく占星術をはじめとする当時のさまざまな学問を研究していた人たちです。占星術と言うと占いというようなイメージがあるかもしれませんが、天文学とか気象学とかさまざまなもの含むものだった。東方というのはエルサレムから見ての東、メソポタミアの地域、さまざまな学問が進んだ地域でした。そしてイスラエルから言えば、外国の地、学者たちは異邦人でした。その異邦人である学者たちがエルサレムにやってきて、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」外国人であるにもかかわらず、ユダヤ人の王として生まれた方を拝みに来た、というのは特異なことです。自国の王ならともかく、外国の王を、それも拝みに来たというのですから。それもはるばる旅をしてやってきたのです。しかもそれは拝みに、ひれ伏して礼拝するために、というのです。学者たちはただたんに、一つの国の王子が生まれたお祝いにやってきたのではなく、この新しい王こそ、救い主であることを受けとめていた。だからこそ礼拝に来たのです。
星に導かれてきた学者たちは、途中でわからなくなったのか、エルサレムの町で尋ねるのです。
一方その話を聞いたヘロデは不安をいだいたのでした。この人は確かにユダヤ人の王なのですが、わかりやすく言うと、ローマ帝国によって雇われている王なのです。現地でのローマの支配を推し進めるための傀儡政権、雇われ王なのです。だからそもそもその地位は不安定極まりないのです。そのヘロデがユダヤ人の王の誕生という風評を聞いて、不安を覚えたというのです。しかしよく言われるように、このヘロデという王は、学者たちに尾行をつけるわけでもなく、ましてや祭司長や律法学者たちまで集めて生まれた場所を特定しているにもかかわらず、自分がすぐに行くわけでもなく、具体的な行動をとっていない。ただ不安を覚えてぐずぐずしている、そう言う人だったかもしれません。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう。」と言っているのですが、別に学者たちの報告を聞くまでもなく、王が家来を使って調べればすぐにわかることです。どうしてそうしなかったのか、不思議です。それでいて、13節には、「ヘロデが、この子を探して殺そうとしている」との天使の言葉が語るように、殺意があったのです。ヘロデのよくわからないしかし脅迫的な不安は伝わってくるのです。
一方、エルサレムの人々も皆、同様に不安をいだいた、というのですが、なぜエルサレムの人々が不安をいだくのか。ヘロデに代わる新しい王の誕生の人々の歓迎すべきところなのではないか。実はこの問題は、この聖書箇所だけでなく、マタイ福音書全体の構成と深くかかわることなのです。つまりエルサレムという場と、そこにいる人々は、主イエスの十字架刑に深く関与している。主イエス殺害の町なのです。そのことの大きな伏線になっている、と言えるのです。
いずれにしても主の降誕という出来事において、東方の学者たちと、ヘロデという両者が対照的に、際立った人物像として描かれているのです。一方で救い主の誕生を自分たちで探求し、調べ、探して、遠き地より自分たちで尋ね求め、主を礼拝しようとする人々。一方で救い主誕生の知らせにおののき、不安を覚える人。確かにヘロデは歴史上の一人物ですが、同時にこの後聖書に登場する主イエスと言う存在に対して不安を覚える人々の象徴的な人物でもあります。ヘロデにとって、ユダヤ人の王の誕生は、風評であったとしても、不気味、自分の存在を脅かすものであったことはまちがいありません。自分が今持っているものが奪われるという不安、怯え、怖れ。もともとヘロデの地位は、不安定でした。ローマの顔色を絶えず窺いながらの日々だったでしょう。防御的、ディフェンシブな生活。つまり自分が今握りしめているものを手離さないように躍起になる生活。お金も権力も、地位も、握りしめているものをそのままに、という生活。不安というのは、安心を欠く精神の状態ですが、ヘロデはまさに安心を欠いていた。
他方この学者たち。他人から見て、何の得にもなりそうもない、赤ちゃんを拝礼するために、遠い地からはるばるやってくる。しかも学者たちは宝物を携えてやってくるのです。もらうのではなく、差し出すために、頼まれてもいない場所からやってくるのです。そして自分たちの宝をこの生まれたばかりの嬰児にささげて、自分たちは手ぶらになって喜んで帰っていくのです。このコントラストをマタイは鮮やかに描いています。クリスマスの時に、わたしたちはこの両者のコントラストの前に立って、わたしはどう受けとめるのか、考えるよう招かれている。
そもそもこの違いはどこから来るのか。両者の違いは、よくわかる。それは獲得し、保持し、握りしめていくという生き方と、持てるものを献げていく、という生き方との違いというふうにも言えます。生き方のベクトル、方向性が真逆なのです。しかし、両者の違いは、ただたんに生き方の違いというふうに還元されるものなのかどうか。
学者たちは救い主の誕生を星によって知らされたのです。そしてヘロデたちによって聖書の預言の言葉を聞き、途中寄り道もしているのですが、ベツレヘムに向かうのです。そして結局ところ、星が学者たちを導き、幼子のいる場所も指示したのです。つまり星は、生まれる時も、生まれる場所も学者たちに指し示してくれたのです。
学者たちは星を見て喜びに溢れたとあります。紆余曲折があっても、自分たちを導き、救い主に出会うものとさせていただいたのは、星の導きによるものだったからです。星は、学者たちにとって自分たちを超えたもの、自分たちを超えて、なお自分たちを導いてくださるものでした。星の導きは、星を通しての神の導き、とわたしたちはこの聖書箇所を通して示される。とすれば、救い主との出会いは、自分たちの力によるのではなく、神の導きによって、その出会いへと招かれていく、それは現代においても変わることの真実で、わたしたちも同様なのです。そしてそこで、この世界には救い主がおられ、救い主がいてくださるのだという事実に出会っていくのです。
この救い主は、インマヌエルと呼ばれる救い主。すなわち、神は我々と共におられる、という方なのです。この方がお生まれになったということは、インマヌエル、神が我らと共に在り続けてくださるということの事実そのものなのです。学者たちは、その恵みを身に受け始めていました。この世界がどのような状況にあろうが、どのような現実があろうが、どのような悲しみ、痛みが、不安があろうが、神が我らと共にいてくださる世界であり、その恵みの中にある現実なのだということ。学者たちは感謝に溢れていた。この事実に触れ始めていたからでしょう。だから感謝に溢れ、宝物を持ってきたのです。インマヌエルの神の恵みに出会ったからこそ、その恵みに感謝したい、だから自分たちの宝を喜んで献げたのです。それは自分が何かになるとか、自分が豊かになるとか、ということではなく、わたしが何者であっても、何者でなくても、わたしが生きるこの人生には、世界にはイエス・キリストが共に在り、神が共に在りインマヌエルだ、という世界の発見なのです。世界の底にある安心の発見なのです。自分の宝物を献げて、自分はそれでも安心して手ぶらで帰っていける世界の発見なのです。
だからこれはたんに生き方の違いというようなことではない。どういう生き方をするかにかかわらず、この世界はインマヌエルの世界だという発見なのですから。この世界の只中で、共にいてくださる神を見出す、神と出会う、敢えて言えばその違いなのです。ヘロデはこの世界の存在に気づいていない。眼開かれていない。わたしたちもまた学者たちと共に新たに、インマヌエルの世界に眼開かれ、その喜びの中で歩みだしていきたい。インマヌエルの世界に気づいていない人々に対して、証しの歩みをなしつつ、歩んでいきたいと思うのです。