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教会暦・聖書日課による説教

2025.1.12.降誕節第3主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書16章13-20節『 わたしの教会をたてる 』

菅原 力牧師

 今日の聖書箇所はこれまでの主の歩みの中で語られてきた主イエスの教え、論争、行った来られたわざ、癒し、奇跡、と言った主イエスの働き、存在、に対して、弟子たちにあなた方はわたしを何者だというのか、という主イエスからの問いによって、一つのまとめ、区切りをつける大事な場面が書き記されています。そしてここで主イエスが語られていることが教会の礎を巡る話であるという点でも極めて重要な場面であると共に、さまざまな議論がされてきた聖書箇所です。

 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに「人々は、人の子を何者だと言っているか」とお尋ねになった。主イエスはここで、これまでの歩みを振り返りつつ、共に歩んできた弟子たちに、人々は人の子を何者だと言っているかと問われたのです。弟子たちはそれに対して、洗礼者ヨハネだという人、エリヤだという人、他にエレミヤだ、預言者のひとりだ、という人がいる、と応えるのです。そういう評価、評判、風評が弟子たちの耳に入ってきていたということです。イエスは言われた。「それでは、あなた方はわたしを何者だというのか。」人々が何と言っているのか、と尋ねた後に、それではあなた方はなんというのか、と主が単刀直入聞いてこられた場面です。それはわたしたち一人一人も、主イエスから問われる問いだと言えましょう。

 「シモン・ペトロが答えた。『あなたはメシア、生ける神の子です。』」名前の表記に注目すると、ここではシモンという本名と、ペトロという渾名が並記されていて、読者の目を引くのです。ペトロは、あなたはメシア、つまりキリスト、救い主、と応え、続けて、生ける神の子と応えたのです。あなたこそ、わたしたちのまことの救い主、そして今生き、永遠に生きる神の独り子だ、という信仰の告白をペトロはしたのです。これはペトロだけがここで初めて告白したものというわけではありません。湖で近づいてきてくださった主イエスに対し、「あなたは神の子です」他の弟子たちも告白しているのです。その意味ではペトロは弟子たちを代表してここでこう告白したともいえるのです。

 すると主イエスは、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを表したのは、人間ではなく、天におられるのわたしの父である。」と答えられたのです。主イエスはここで敢えてバルヨナ・シモンと呼んでいます。これはギリシア語の呼びかけではなく、主イエスが使っていたアラム語風の呼び方です。おそらくこの主イエスの発言の伝承がアラム語だったのかもしれない。しかしまた、敢えてペトロとはここで呼ばず、次の発言に繋いでいるのかもしれません。あなたにこのこと、つまりイエスがキリストであること、生ける神の子であるということを現してくださったのは、人間の力や知性ではなく、ただ神のお働きによるのだ、とキリスト言われ、さらに畳みかけるように、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会をたてよう。」と言われたのです。

 この主イエスの言葉、皆さんはこれまでどう読んでこられたでしょうか。実はこの主の言葉を巡っては後の教会の歴史の中でさまざまな解釈がなされてきました。今、あえてその中で三つの代表的な理解をお話ししたいと思います。

 一つは、東方的解釈と呼ばれるものですが、このあなたはペトロ、わたしはこの岩の上にわたしの教会をたてよう、という言葉をペトロと岩とを語呂合わせとみて、ペトロという岩の上にということを、ペトロの為したキリスト告白、キリスト信仰の上に教会をたてる、という解釈です。つまりキリストの教会というのは、イエスをキリストと告白する信仰告白の上に立つのだという解釈です。

 二つは、アウグスティヌス的解釈で、キリストこそが教会の土台となる岩である、という理解です。そもそもペトロもキリストを土台として歩むのであって、自分から歩むのではない。ペトロは岩なのではない。岩はあくまでもキリストご自身だ、という解釈です。

 そして三つめはローマ的解釈と呼ばれるもので、ペトロが、そして彼以後の教皇が教会の土台たる岩である、という解釈。カトリック的解釈です。

 プロテスタント教会はこのローマ的解釈をとらない。ペトロという一人の人物、教皇という人物を土台して教会がたてられる、とこの聖書箇所が語っているとは理解しない。そうすると一つ目の解釈と、二つ目の解釈がわたしたちにとって大事なことになるのですが、二つは必ずしも二者択一ではなく、相互に深く関係しあっているともいえます。

 ここで主は岩の上にわたしの教会をたてよう、と言われているのですが、このペトラ(岩)と「建てる」がペアになっている箇所がこのマタイ福音書にもう一箇所あるのです。覚えている方はおられるでしょうか。

 それは7章の24節。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」というこちらもとても有名な箇所です。ここを読むと、岩とは、主イエスの御言葉の比喩である、ということがわかります。とすれば、主は岩の上に教会をたてると言っておられるその岩とは、主イエスの御言葉ということであり、主イエスのみ言葉に聞いてそれを行う者たちの上に教会をたてると言っておられるということになります。これは、先ほどのアウグスティヌス的解釈、キリストこそが教会の土台ということと、東方的解釈、キリストを告白する信仰の上に教会をたてるということと深く重なり合ってきます。教会はキリストという土台の上に立つものです。と同時にキリストを信じて告白する者たちによって担われていく、建てられていく、それが教会なのだということです。

 「陰府の門もこれに打ち勝つことはない。」陰府の門という言葉でここで語ろうとしているのは、死の国、死の力ということでしょう。その死の力も岩の上に立つ教会、主のみ言葉に立つ教会、主の福音に立つ教会に打ち勝つことはない、と主イエスは語られるのです。

 「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で結ぶことは天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。」あなたに天の国の鍵を授けると言われているあなたとは、ここまで読めばわかるようにペトロ個人のことではなく、教会です。教会に天の国の鍵を授けるというのです。どんな鍵なのでしょうか。どうして鍵という言葉を使ったのでしょうか。

 マタイ福音書の23章に主イエスのこういう言葉が記されています。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなた方偽善者に災いあれ。あなた方は、人々の前で天の国を閉ざしている。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。」ここでは鍵という言葉は使われていませんが、律法学者が、天の国、つまり神さまのまことの支配、恵みの中に人々が入るのを閉ざしている、と言われている。あなたの信仰的努力が足りないとか、もっとこうしなければならないとか、さまざまに言っては、天の国に入るのを閉ざしている。そして律法学者自身も、神の恵みの支配の中に入らない。

 キリストの教会は、人々を神のまことの支配、まことの恵みに招き入れるものであって閉ざすところではない。だからこの鍵というのは、教会が天国の門番のように立っていて、あなたは入れる、あなたは入れないというように鍵の開け閉めをしている、ということではない。そうではなく、神のまことの支配、まことの恵みに対してそれを閉ざそうとする働きや者たちがいる中で、教会こそがその扉を開けて、すべての人がキリストの福音の恵みのうちに入れられるのだ、ということを顕わにするのだ、と言われているのです。

 「あなた方が地上で結ぶことは天でも結ばれ、地上で解くことは天でも解かれる。」あなた方が地上で結ぶ、という時の結ぶとは、キリストによってわたしたち罪人が神と結ばれる、ということであって、地上で受ける主の福音による結びは、天上でも結ばれている、という宣言です。そして地上で解かれるとは、わたしたちがこの地上の生活で繋がれている悪霊の力や、罪の拘束、それらから福音によって解かれたことは、天上においても解かれるのだ、という宣言です。

 すなわち教会で語られるキリストの福音は、ただ地上だけでの話なのではない、天の国においても約束されていることであって、わたしたちは教会においてこそ、地上と天の国でも永遠の平安の中におかれるのだ、という主の約束の言葉がここで語られている。

 教会はキリストを土台とする、キリストの教会であり、主イエスをキリストと告白する者、キリスト信仰に生きるものの教会であり、キリストのみ言葉に聞き行うものの教会であり、地上と天国を繋ぐ、主のみ言葉によって活かされる教会である、と主イエス・キリストは語られたのです。