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教会暦・聖書日課による説教

2025.2.2.降誕節第6主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書16章21-28節『 神のことを思う 』

菅原 力牧師

 今日の聖書箇所は現在の章立てから言えば、16章の途中ですが、内容的に言えば、ここから新しい場面に入っていきます。21節に「この時から」という言葉で始まり、「と弟子たちに打ち明け始めた」とあります。実はこれと同じ書き方が4章17節に出てきます。「その時から…始められた」、という表現です。

 4章17節から16章20節まで主イエスの言葉、わざ、が語られ、ここからはキリストの使命が語られるとともに、キリストの弟子たること、キリストに従っていくことの全体像が示されていくのです。

 21節「この時から、イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」これまでのところで主は福音を語り、さまざまな主のわざ、奇跡をおこなってきました。そして主はここから、ご自分がどのような道を歩まれるのか、どのような使命の中で歩んでいかれるのか、弟子たちに具体的に語り始められたのです。打ち明け始められた、という言葉は示し始められた、という言葉です。

 するとその主イエスの言葉に対してペトロがすぐに反応したのです。「ペトロはイエスを脇へお連れして、諫め始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』」

このペトロの言葉をどう受けとめていくかが、今日の聖書箇所において、まずとても重要なことです。キリストの受難予告、十字架への道を諫める、この発言はペトロの不信仰の発言だとか、主の使命を諫めるなどと言うことはけしからん発言だ、という理解が当然あるわけです。確かにそうした理解があるのは当然なのですが、そうした判断の前に、それだけの理解で済むような発言かどうか、丁寧に考えてみたいと思うのです。

 ペトロの22節の発言なのですが、直訳すると「主よ、神の慈しみがあなたに。このようなことはありえない。」という文章です。意味を汲み取れば、慈しむ神がそのようなことを許しませんように、という意味でしょう。ペトロは主イエスの発言を聞いて、正直驚いたと思います。そんなことがあっていいはずがない。何より神さまの導きと守りがあるのだから、そんな危険な目には遭わないだろう、という期待と願いが込められている発言です。主イエスがもうすぐ殺されて死ぬなどということは到底受け入れられない。死んでほしくない。当然すぎるあたり前のペトロの発言なのです。いろいろ先行きを心配する人に向かってわたしたちは、大丈夫、神さまがよい道を備えてくださる。神さまを信じて歩んでいけば、必ず守られていくから。そう声をかけるのではないでしょうか。わたしたちもここでのペトロのような発言は普通にしている。そもそも主イエスはたんなる指導者ではなく、救い主だと、メシア、生ける神の子、とペトロはこの直前で告白しているのです。救い主が十字架で殺されるなどということはありえない話、殺されるということは権力者たちに敗北する、ということですよ。納得できる話ではないのです。そうしたあれこれを思うと、ペトロの発言はわたしたちにとってよくわかる、無理からぬ発言といえるのです。この発言はペトロの不信仰の発言だという人がいますが、けれども、ある意味信仰の発言と取ることもできます。なぜなら、慈しみの神の守りが主イエスにあるように、と願っているのですから。

 しかし主イエスはこのペトロの発言に対して、「サタン、引き下がれ、あなたはわたしの邪魔をする者だ。神のことを思わず、人のことを思っている。」と言われたのです。キリストはこのペトロの言葉を、同情するというのではなく、断固として退ける。ペトロは悪意でものを言ったわけではない。主イエスのことを思い、その身を案じ、主イエスのためを思って言った発言に対して、サタン呼ばわりで、ペトロは心底驚いたのではないでしょうか。

 しかし今日の聖書箇所でこの主イエスの断固とした言葉をしっかりと受けとめなければなりません。いうまでもなくこれが今日の聖書箇所の急所です。ここをはずすのなら、何も聞いていないのと同じです。

 主イエスがペトロに対して、サタンと言われたその言葉を聞いて思い起こすのは、このマタイによる福音書の4章、悪魔の誘惑の場面です。そこで悪魔は主イエスに向かって神殿の端に立たせて、神の子なら、飛び降りたらどうだ、と誘ったのです。悪魔はお前が神の子なら、神はお前を守ってくれるだろう、といったのですが、それは、神を自分の都合に合わせて利用することに他ならない。お前が苦境に立てば、お前を守るのが神だろう、と結局神を自分の身の安全や自分の利益のために利用することであり、それはつまり、神の御心に聞いて生きるということよりも、自分の思いを満たすことを優先していく、ということなのです。そしてそれが、悪魔の誘惑だったのです。ペトロの言葉は、まさにその悪魔の誘惑に重なっていくのです。神の子だから、神はあなたを守り、あなたの身の安全を保障するでしょ。ペトロの言葉は確かにイエスの身を思っての発言だったでしょう。しかしそれは、イエス・キリストが神の御心に聞いて歩んでいこうとするその場所で、正反対のベクトル、方向性なのです。キリストは自分の身を守るために神を利用するのではなく、神に聞いて、神の御心に従うことをこそ望んでおられたのですから。ここでペトロの心の中は、キリストによってはっきりと見通されているのです。ペトロの言葉はペトロの考える、ペトロが思う安心、安全であり、ペトロが願う平安であり、しかもそのために神をも自分の意に添って働いてもらいたいと願うものだった。それはあくまでもペトロの心のうちにあるものの延長なのです。しかもそれで、神の御心に従おうとするキリストの歩みを諫めようとする、それは自分の心に囚われ、サタンに捕らえられている、とキリストは見抜いておられるのです。

それがさらにはっきりと語られるのが24節以下の主の言葉、「わたしについて来たいものは、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい。」キリストに従って歩んでいこうとするとき、人間の心は、自分の心に捕らわれやすく、善意であろうが悪意であろうが自分の心に囚われていく、そしてそこで「神のことを思わず、人のことを思って」いく自分を知らされる、ということをくしくもペトロはわたしたちに現わしているのではないでしょうか。

 注意してほしいのは、今ここで「サタン、引き下がれ」と言われているペトロとは、この前の聖書箇所でキリスト信仰を告白し、「ペトロ、わたしはこの岩の上にわたしの教会をたてよう」と言われたペトロだ、ということです。

 ペトロの中に、キリストをまっすぐに仰ぎ見て、主と告白するペトロもいれば、神のことを思わず、人のことを思っているペトロも共存しているということです。

 それはまだまだペトロが信仰者として未熟だということではなく、生涯続くこととして、死ぬまで、ペトロはその課題を抱えた人間として歩む、ということなのかもしれません。マタイはそのことをはっきりと書き記すことで、われわれの中にもイエスをキリストと告白し、神を仰ぐ私もいれば、神のことを思わず人のことを思っているわたしもはっきりと共存し混在していることを顕わにしているのです。

 キリストはそのペトロに向かって、サタン、引き下がれと言われている。つまり、キリストに従って生きる、ということは、サタンの誘惑がいつもある中で、自分の心の囚われから、神のことを思う歩みへと向かう、方向転換があるのだ、とここで言われているのです。そしてそれは自分を捨て、自分の十字架を負って、キリストに従う、ということだと言われるのです。

 自分を捨て、と訳されている言葉は、自分を否定し、という言葉です。これは福音書においてペトロがイエス・キリストのことを三度知らないと言って否認する、あの時の言葉と同じ、あの時はキリストを否定する、ここでは自分を否定する、対になって用いられている言葉です。つまりキリストを否定しない生き方というのは、自分を否定する生き方なのだと福音書は語るのです。しかしその場合、自分を否定するというのは、自分を殺すというようなことではなく、キリストに従うという時、どんな時も、先立っていかれるイエス・キリストを見て、この方の後ろについていく、自分自身を見つめ自分の心の声にまず聴くのではなく、キリストが自分の前を、自分に先立って歩いておられるこの方を注視すること、自分の心の声ではなく、キリストの言葉に、神の言葉に聞いて、この方の後ろについて、それが自分を否定し、ということの意味なのです。

 自分の十字架、というのは、この方の後ろについていく中で与えられていくもののことで、自分で勝手にこれが自分の十字架だと決めつけるようなものではない。自分の思いで自分の命を守ろうとしたり救おうとしたりしてもそれは叶わないことで、この方についていく中で、この方によって担われ、負われていることを知らされ、献げていく歩みが生まれていき、まことのいのちを得るのです。

 誤解してはならないのは、自分を捨てるとは、世捨て人になるとか、修道院に入るというようなことに限定されるようなことではないのです。わたしたちはわたしたちに与えられた日常の生活を暮らしを一人一人歩んでいくのです。その歩みの中でキリストに従っていくということは、その要所要所で神を思うのか、人を思うのか、ということに気づく気づかずに関わらず直面していくのです。そこでわたしたちは、ペトロのように、思わず人の思いに心囚われていくこともしばしばなのです。しかしそこでこそペトロに語られた主イエスの言葉、「サタン、引き下がれ」と思い起こし、先立っていかれるキリストをもう一度仰ぎ直し、その御声に聞き、歩みなおしていくことが求められているのです。気づいたときには、人の思いを優先していた自分にキリストの言葉によって目開かれ、もう一度仰ぎ直し聞き直していく、この歩みをずっと繰り返していく、それが大事なことであり、それが終末のときにも、主に喜んでいただけることであること覚えていきたいと思います。