ntent="text/html; charset=utf8" /> 大阪のそみ教会ホームページ 最近の説教から
-->

教会暦・聖書日課による説教

2025.2.9.降誕節第7主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書17章1-13節『 山上の変貌 』

菅原 力牧師

 さきほど朗読されたマタイ福音書の17章1節から13節には主イエスが三人の弟子とともに山に登られ、そこで変貌された、変容された、という「山上の変貌」と呼ばれる出来事が記されています。不思議な、しかし、ペトロ、ヤコブ、ヨハネにとっては忘れることのできない、出来事であったろうと思わされるのです。たしかに不思議な出来事ではあるのですが、これまで読んできた聖書箇所を思うと、唐突に起こった出来事ではないと、思います。

少しこれまでのところを振り返っておきたいのですが、16章13節で主イエスは弟子たちに「人々は、人の子を何者だと言っているか」尋ねられました。それは主イエスが4章から福音の言葉を語り、主のわざをなしてこられた、それらを経ての弟子たちへの問いかけでした。そして続いて15節では「それでは、あなた方はわたしを何者だというのか。」という問いかけが主からなされている。

 ペトロはそれに応えて、「あなたはメシア、生ける神の子です。」と応えたのでした。それに対して主は、わたしは、わたしの言葉と、その言葉を聞いて信じてキリストを告白する者の上に教会をたてる、と言われたのでした。

 そしてその後、主は、ご自分の受難予告を語り始められた。わたしの歩む道は、受難の歩みなのだ、ということを。するとペトロが諫め始めた。先週読んだところです。ペトロが主を諫めたのには、いろいろな思いがあるにせよ、そのペトロに対して主は、「サタン、引き下がれ」と言われた。「あなたはわたしの邪魔をする者だ。神のことを思わず、人のことを思っている。」と。ペトロのしたこと言ったことは、ペトロという人間から出ていること、ペトロの思い、考えであって、神に聞き、神に従い、神の御心の中で歩むキリストにとって、ペトロの発言行動はサタンと等しく、キリストを邪魔するものだ、と言われたのです。

 ペトロはキリスト告白をなし、教会の基となる告白をしたけれど、同時に、神に聞き従って受難の歩みを歩もうとするキリストのことがわからなかった。神よりも自分を優先していたからです。だからキリストは弟子たちに「わたしについて来たいものは、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい」と言われたのでした。それがここまでの出来事です。

 そのようなペトロをはじめとする弟子たち3人を引き連れて主は山に登られた。山に登るということは、いろいろな意味があります。一つの事を言えば、今日の聖書の出来事は、山に登り、山を下りる出来事、物語です。そしてこの一連の出来事の中心には神の声があります。山に登るとはここではまず、水平の関係ではなく、垂直の関係、神との関係に心とからだを向けることだと思います。ペトロはキリストの受難の歩みを聞いて、自分の思いや、自分の意見、自分の感じたことは語ったけれど、その受難の歩みに神のどのような御意志が働いているのか、思うことすらなかった。つまり水平の視線はあったけれど、垂直の視線はなかった。主イエスはそのペトロを連れて、山に登った。主イエスの御意志はわたしたちにも伝わってくるのではないでしょうか。

 そして弟子たちはそこで主イエスの姿が変容するのを見たのです。顔が太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。まさしく光り輝く姿のイエス・キリストです。それはある意味、ペトロが心の中で願っていた栄光のキリスト、他を圧倒するキリストの光景でした。しかもそこには、モーセとエリヤが立っていて、旧約聖書の偉大な信仰者、そして今は天上の人、その二人とも主イエスは語り合っておられるのです。

 ペトロはこの光景に感激します。言い知れぬ幸福感に包まれたでしょう。

 思わず口から、ここに幕屋を(つまり小屋を)立てて、三人の住まいとしましょう、というのです。この栄光の光景をここにしっかりと繋ぎとめておきたいと思ったかも知れない。

 すると雲の中から声があり、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け。」と語りかけてきたのです。神の御声です。

 ペトロは山に登り、変貌した主イエス、光り輝く主イエスに感動したのです。しかもペトロはこの光輝く主イエスに対して神からの「これはわたしの愛する子」という宣言も聞いたのです。しかしその栄光は、ただ王様のように着飾って、誰よりも美しい衣を身にまとっているという栄光ではない。神の独り子であるキリストが、わたしたちのために、苦しみを受け、十字架を負い、わたしという存在を担い、わたしの罪を身に負って、その裁きを受け、その罪の罰としての死を死んでいかれる、そのような受難の歩みを歩む苦難の僕キリストなのです。そしてそのキリストが神によって復活させられ、いのちを与える、そのような栄光の主なのです。

 つまりペトロは、十字架も苦難も、そして復活も抜きで、ただ光輝く主イエスに感動した。だからここに三つ小屋を建てようと言い出した。キリストが弟子たちに「あなた方はわたしを何者だというのか」と尋ねられたことはとても大事なことです。それはわたしたちの同じで、この方を誰というか、問われている。そして一人一人その問いに応えていくことが求められているのですが、その際大事なことは、イエス・キリストという方の、言葉、わざ、そして使命、その歩み、その全体に出会いつつ、この方はどなたなのだ、と問いかけられているのであって、ある一部分を見て、それで判断するのではない。キリストの全体を見る必要があるのです。

 主はペトロたちを連れて山に登られた。それは栄光に輝く、光り輝くキリストを見せるためであったことはまちがいない。そしてこのイエス・キリストこそ、神の独り子である、という神の声まで、弟子たちは聞くことが赦された。その神の声の最後は、「これに聞け」、という言葉が語られている。確かに弟子たちは栄光のキリストを見た。しかしその栄光のキリストをまこと知るのは、キリストの言葉に聞き続け、ペトロの思いではなく、キリストの言葉に聞いて、受難のキリストを知らされ、その苦しみを知り、復活の主を知ることによってである。

 9節を見ると、山から降っていくときに、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはならない」と主イエスが言われたことが記されています。よくわかるのではないでしょうか。

 弟子たちが栄光のキリストが本当にわかるのは、十字架の主に出会い、死に行くキリストと出会い、死の現実とも出会い、そのキリストを神が甦らせ、復活の主と出会う、その後なのです。光輝くキリストだけを見て、その復活の主に出会って、初めて弟子たちは栄光のキリストをまこと知るのです。

 ペトロを始め弟子たちは実際、復活の主に出会うまで、十字架のことも、苦難のこともわかりませんでした。だから、十字架が近づくにつれて恐ろしくなって、キリストのことを知らないと言ったり、逃げ出したりしました。そのペトロのや弟子たちの姿は、わたしたち自身とも深く重なり合うものです。

 だからこそキリストは弟子たちに、わたしたちに示されたのです。主の言葉とわざを示し、わたしは何者だ、と問いかけ、さらに受難の歩みを示し、それに抗うペトロの応答の中に潜むサタンも働きも気づかせ、山上に昇り、光り輝く主イエスを見せ、この栄光のキリストは十字架を担い、人々の罪を負い、復活の主としてわたしたちに救いを与える栄光の主なのだ、ということを示されたのです。

 その示しを弟子たちは記憶するのです。わからなくても記憶したのです。

 光り輝く主イエスを見た弟子たち、その時に聞こえた神の声。弟子たちはこの不思議な出来事の中で、ひれ伏し、非常に恐れた、とあります。この部分を説明するのはとても困難ですが、弟子たちは人間の働きとは全く違う、神の働きを見て聞いて、おそれたのではないでしょうか。

 その弟子たちに「イエスは近寄り、彼らに手を触れて言われた。「立ち上がりなさい。恐れることはない。」この主イエスの言葉、彼らはわからなくても記憶したのです。

 9節からは下山の際に主が今見たことを誰にも言ってはならない、と言われたこと、そして弟子たちがエリヤがまず来て、それから神の子が来るのではないのですか、という当時のユダヤ教の中にあった考えを問うたことが記されています。

 それに対して主はエリヤはすでに来たのだ、と答えられた。「しかし人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、同じように人々から苦しめられることになる。」と言われました。エリヤの役割を担ったのは、洗礼者ヨハネだ。そのヨハネの語る言葉を聞こうとせず、彼は死に追いやられた。わたしもまた、苦しみの道を歩むことになる、と主は弟子たちに言われた。

 しかし弟子たちはまだわからない。ここでもキリストが言っておられるエリヤが洗礼者ヨハネのことだということはわかったけれど、なぜキリストが受難の道を歩まねばならないのか、なぜそれが栄光に輝くキリストなのか、弟子たちはわからない。しかしわからなくても弟子たちは記憶した。だからこの聖書の言葉が残っているのですが、弟子たちはやがて、十字架を知り、復活の主と出会う中で、神の救いの御意志、キリストの信実に出会っていた。そして、主イエスが天に上げられ、地上を去った後も、このキリストの言葉の一つ一つを忘れずに、何度でも何度でも思い起こした。自分たちの愚かさも含め、自分たちの思いで救い主を捕えようとする愚かさも思い起こしつつ、そのわたしたちのために十字架にかかられ、復活し、キリストの方から近寄ってくださり、「立ち上がりなさい。恐れることはない」と呼びかけてくださるイエス・キリストを、何度でも何度でも、思い起こし、そのキリストの言葉によって歩みだしていったのです。