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教会暦・聖書日課による説教

2025.2.16.降誕節第8主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書17章14-21節『 からし種一粒ほどの信仰 』

菅原 力牧師

 主イエスが山に登られ、山上の変貌の後、山を下りてくるとそこには大勢の群衆がいました。主イエスが来られたことを知ると、ある人が近づき、跪いて主イエスに言ったのです。「主よ、息子を憐れんでください。発作でひどく苦しんでいます。何度も何度も日の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに息子を連れていきましたが、治すことができませんでした。」一人の父親がその子を連れて主イエスのもとにやってきた。息子が発作で苦しんでいるというのです。いったいどういう病気だったのか。原文では「月に狂わされて」ひどく苦しんでいる、とあって、そこからいろいろ想像することもできますがよくはわからない。新共同訳は癲癇と訳していましたが、こんどの訳は発作としています。しかしただ発作を起こすだけでなく、火の中や、水の中に倒れる、入ってしまうため、いのちの危険にかかわる発作なのです。主イエスの弟子たちのところに連れて行ったが治らなかったというのです。

 すると主イエスは「なんと不信仰で、ゆがんだ時代なのか。」と叱責とも嘆きともとれるような言葉を語り始められました。「いつまであなた方と共におられようか。いつまで、あなた方に我慢しなければならないのか。」と弟子たちに向かって言われた。そして「その子をここに連れてきなさい。」と言われて、その子から悪霊を追い出し、その子は癒されたのです。

 弟子たちは自分たちがこの子の病を癒すことができず、主によってたちまち癒されたその事実を見て、自分たちはできなかったという負い目もあり、ひそか主イエスにこう尋ねたのです。「どうして、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」。すると主は単刀直入、「信仰が薄いからだ。よく言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山に向かって『ここから、あそこに移れ』といえば、移るだろう。あなた方にできないことは何もない。」と言われたのです。このエピソードというか、出来事、とてもインパクトのある、短い対話だけれど、人を抉るような会話です。

 弟子たちは発作で苦しむ子どもを癒すことができなかった。それに対して主は不信仰、ゆがんだ時代と言われた。時代という言葉を使っておられるので、ただ弟子たちだけというよりも今の時代が不信仰な時代だということを問題にしているようにも受け取れます。おそらく直接には弟子たち、そして弟子たちだけでない、この時代の人々の不信仰、ということを主は語っておられるのでしょう。弟子たちは「どうして、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と問います。

 それに対しても主は実にはっきりと明言される。「信仰が薄いからだ」、と言われるのです。信仰が薄いという言葉は、信仰が小さい、という言葉です。弟子たちに信仰がないわけではない。小さいから悪霊を追い出せないのだ、というのです。信仰が大きければ、病を癒すことができるのか。

 今日の聖書箇所を読んで、いくつかの疑問を持たれた方は少なくないでしょう。

 信仰の小ささが問題になっているのに、続く言葉、「もし、からし種一粒ほどの信仰あるなら」はまさに極小、といっていい小ささの信仰を語るのです。わたしたちはこの箇所を読んでいて、信仰が小さいからこれこれの難問を解決できなかったのだ、つまりもっと大きな信仰を持たねば、とおのずと考える。しかし主イエスの言葉はそのようなわたしたちの読み方聞き方にして、違う次元を指し示しています。

 弟子たちの信仰が小さい、それは主イエスの指摘の通りなのでしょう。しかしだから大きな信仰を持て、と言われていない、ということです。むしろからし種一粒ほどの信仰があれば、山をも移すことができる、と言われている。からし種一粒とは掴めないほど、つまめないほどの小ささですよ。

 とすれば、ここで言われているのは、ただたんに大きい小さいではなく、弟子たちが信仰だと思い込んでいる信仰と、主イエスが示される信仰との違いに関わることなのではないか。確かに弟子たちの信仰はまことに小さい、しかし主がここで語ろうとしている信仰であればからし種一粒ほどであっても、豊かなものであるということなのでしょう。

 少し具体的に考えてみます。弟子たちがここでとらえている信仰とは、どういうものなのでしょうか。いうまでもなく弟子たちは主イエスに従ってきたのだから、主イエスを救い主として仰ぐ信仰を何らか持っていたのです。同時に、弟子たちは、信仰を些かでも持つことによってその人の力が増したり、生きる上での能力が上がったり、困難にぶつかったときにも、へこたれない力が与えられたり、いずれにせよ自分自身がパワーアップするようなものをそこに期待し、事実信じることでそうなっていくのではないか、と思っていた。だから弟子たちは主イエスと共に歩み、信仰も増して、大きくなっていくなら、悪霊をも追い出せると思ったのではないか。それはある意味とても分かりやすく、自然なことのようにも思えるのです。

 弟子たちは主イエスに対して「どうして、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか。」と尋ねました。この質問は、わたしたちには何が足りないのか、と読み替えることもできる質問です。わたしたちには何が足りなくて悪霊を追い出せないのか、ということですが、弟子たちはもともと悪霊を追い出す力はないし、信じる者となったからといって、弟子たちにそのような力が備わるわけではない、ということを見失っているような質問です。もっと言えば、ここに弟子たちの信仰に対する無理解がある、といえるのです。

 しかし神を信じるということは、わたしに何かが備わることではなく、神が生きて働いてくださることを、信じるということです。わたし自身を見つめているわたしからキリストに目を注ぐわたしへと、変わらさせていただくのが信仰です。わたしが行き詰まる時、わたしが困難に直面するとき、わたしたちはわたし自身を見るのです。できない自分、行き詰まっている自分を見るのです。しかしキリスト教信仰とは、イエス・キリストにおいて働いてくださっている神へと視線を移らさせていただくことです。わたしたちの歩みの中で、働いてくださっている聖霊にこの自分を向きなおらせていくものです。

この神へと向き直り、イエス・キリストへと目を注がせていただく信仰がからし種一粒ほどでもあるのなら、そこであなたは神の働きを知るであろう、ということがここでキリストが言っておられることです。

誤解のないように言うならば、わたしたちは信仰で山を移したという事例を知らないし、信仰ゆえに悪霊を直ちに追い出し、病を癒したということを経験として持っているわけでもない。キリストがここで言っておられる山を移すほどの信仰とは、神へと向き直ることで、キリストへと向き直ることで知らされていく神の働きのことです。

発作に苦しむ息子を連れてきた父親に向かってキリストは、「その子をここへ連れてきなさい」と言われた。ここへ連れてくる、とはキリストの御許に連れていくということです。キリストの御許で神の働きはあらわになるのです。

わたしたちが癒すのではなく、キリストが、神が働かれる、そのことを仰ぎ見て、キリストのみもとに連れていく、それがわたしたちにとっての伝道なのでしょう。しかしそれは私自身がキリストの御許に何度でも立ち帰り、共にいてくださるキリストへと向き直っていくことが必要です。

 わたしたちもまた、弟子たちと同じように、信仰に対して誤解を持っていたかもしれない。いや今も尚、信仰に対するご誤解をどこかで持ち続けているものかもしれない。だからこそ、自分の信仰の小ささが気になったり、信仰があるのに、なぜこんな自分でい続けているのか、自分は変われないのか、と忸怩たる思いを持つこともあるのではないか。

 イエス・キリストは今日の聖書箇所で「からし種一粒ほどの信仰」ということを語られた。それはつかめないほどの小ささであると同時に、ひょっとしてこの比喩で言われているのは、わたしにはつかめないものとしての信仰、を語っておられるのではないか。わたしのものになる信仰ではない、ということ。その都度与えられ、授けられ、その都度眼開かれていくような形で、その時々で示されていくもの。これがわたしの信仰だと言って掴み取れるようなものではない、ということも語っておられるのではないか。

 ただ神の恵み、愛、信実が先行して、わたしたちを導いてくださる。わたしたちは御言葉を通して、キリストを通して、聖霊によってその事実を受けとり、その恵みに気づかされ、感謝し、キリストに向き直り、神に向き直り、聖霊に向き直っていく。そこでわたしは神の働きを知らされていくことになるのです。