ntent="text/html; charset=utf8" /> 大阪のそみ教会ホームページ 最近の説教から
-->

教会暦・聖書日課による説教

2025.2.23.降誕節第9主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書17章22-27節『 キリストからの問いかけ 』

菅原 力牧師

 今日朗読された聖書箇所はお読みになってわかるように二つの話によって構成されています。この二つの話がどう関係しているのか、というようなことは後ほど考えるとして、まずそれぞれの話を見ていきましょう。

 22節から23節は主イエスが再び、受難と復活の予告をされる場面です。こうして福音書に受難予告が何度も出てくること自体、主イエスご自身が何度も、いろいろな場面でご自身の使命を語られたからに他ならないのです。「人の子は人々の手に渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。」この言葉に対して、「弟子たちは非常に心を痛めた。」とあるのは、頷けることです。主がこのことを言われるたびに弟子たちはつらい思いをしたでしょう。それは敢えて言えば、主イエスが語られること、受難予告を理解はしたでしょうが、到底受け入れることのできるものではなかった、ということです。それが心を痛めた、という言葉に含まれている弟子たちの気持ちでしょう。しかし三日目に復活する、という主の言葉に何の反応も示していないということを思うと、そもそも弟子たちというだけでなく、人間の理解力の限界、というか、弟子たちの理解力を遥かに超えていた、ということなのでしょう。復活の主に出会うという経験なくしては、十字架も甦りも受け取れないことだったのです。

 24節から27節には神殿税を納めるかどうか、ということを巡る話が記されています。この話の背景はかなり複雑なのですが、まず神殿税とは何かということを簡単にお話しすると、神殿税というのは国税ではありません。国が徴収する税金ではありません。さらに当時イスラエルを支配していたローマの税金でもありません。神殿税は、イスラエルの民が毎年治めることが求められた神殿の祭儀の出費に用いられた税でした。わたしたちにとって馴染みのあるものではありません。

主イエスたち一行がカファルナウムという町に行ったとき、徴税人たちがペトロのところにやってきて、「あなた方の先生は神殿税を納めないのか」と聞いてきたのです。この質問から主イエスが神殿税を実際のところ納めていなかったのかどうかはわかりません。しかしこれまでの主イエスの発言や行動、わざを通して、主イエスがユダヤ教の枠を超えて、ときにはユダヤ教の宗教者たちを批判して語り、行動している、ということを感じていた人たちが少なからずいたのでしょう。

徴税人はユダヤ人としての務めである神殿税納入をどうするのか、ペトロに聞いたのでした。ペトロはそれに対してあっさりと「納めます」と応えたのでした。おそらくペトロには、神殿税に対して深く考えることもなく、一般的に納税の義務というような感覚でただ「納めます」と答えたのでしょう。

この徴税人とペトロのやり取りが家の中にいる主の耳に入ったのか、ペトロが家に入ってくると主イエスの方からこうペトロに尋ねてこられたのです。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物を誰から取り立てるのか。自分の子どもたちからか、それともほかの人々からか。」

不思議な質問といえば質問です。

しかし答えられない質問ではない。この世の王様というのは、税金や貢ぎ物を誰から徴収するのか。自分の子どもからか、それとも、他の人々からか、というのですから、「ほかの人々からです」と即答したのです。どこの国の王様でも、自分の息子から税金を取りたてない。他の人々からとるのです。当たり前の質問に対して、当たり前に答えた。

すると主はこう言われたのです。「では、子どもたちは納めなくてよいわけだ。」

 何か念を押すように、主はペトロに言われた。ここではじめて、ペトロも、また読者であるわたしたちも、なぜ主イエスはこういう質問、問いかけをなさったのか、考え始めるのではないでしょうか。それは地上の王の話は一つの比喩、たとえだということです。王様は自分の子どもから税をとりたてない。とすれば、神の国の王たる神さまは、ご自分の子どもから税を取り立てない、ということを主イエスの地上の王の話で比喩的に話しておられるのではないか。神の子ども、イエス・キリストから、神は税を徴収しない。そうだとすれば、この主イエスの言葉は、広がりのある言葉としてわたしたちに響いてきます。

 地上の王が、神の国の王、神と比喩だとするのなら、自分の子どもたちから税を取り立てない、という場合、自分の子どもたちというのは、イエス・キリストであり、イエス・キリストを信じるキリスト教徒、と読むこともできるし、もっと広くイスラエルの人々と受け取ることもできる。

 おそらくこのマタイ福音書が編まれていった時代背景の中には、イエス・キリスト信じるキリスト教徒たちの中で、神殿祭儀が最早自分の生活の中心にない人たち、その人たちにとって神殿税を納める必要があるのか、そういう議論があったのでしょう。だからこそここでの主イエスの発言はとても深い意味を持っていたし、主イエスの御意志を考える基点になっているのでしょう。

 ここには、二つの事柄が交差しているのです。一つは、主イエス・キリストと父なる神との深いつながり、関係性。それは人間の親子関係だけでは類推できない深いつながり、聖霊と共に三位一体と呼ばれる深くて豊かな関係がキリストの発言の背後にはあるのです。

一方で長い旧約の歴史を通して形成されてきた神と人間との関係の中で作られてきた神殿、そしてその神殿を支えるために人間が作ってきた神殿税というものがあるわけです。

この二つがこの場面で交差している。しかし、多くの人にとって、イエス・キリストの父なる神との関係性はいまだ受けとめられていない。受けとめられていないどころか、イエスが神の子であるというようなことは、到底容認できない、という人々が主イエスを殺そうとしていくのです。

だから、ここで二つのことが交差しているとは思わない人にとって、イエスが神殿税を納めることは当然こと。ペトロ自身もそう受けとめている。

しかし、イエス・キリストが神の子であり、神との深い関係性の中にあるものであることを知らされたものにとっては、主イエスがここで語られた言葉は、素通りできる言葉ではないのです。王は自分の子どもから税を徴収するのか、というこのシンプルな発言が強く響いてくるのです。

そもそも神殿は、イスラエルの民が神を礼拝し、神と出会うために建てたものであるのなら、それ紛れもなく父の家なのです。その父の家の神殿税を子であるキリストから神は徴収されない。つまりキリストにとって神殿税を納めるかどうかという問題は、自由なのです。自由という意味はこの問題に捕らわれない、ということです。それが子であるということです。しかし人々からすれば、それがわからない。神の子イエス・キリストがわからないからです。あんなにはっきりと「あなたはメシア、救い主、神の子です」と告白したペトロが、神殿税のことを問われて、何もわからず答えているのです。

 神の子が神に税を納める、この異和感がペトロにはこれまでなかったのでしょう。これは今わたしたちが教会でささげている献金とは全く違うものです。神殿税はユダヤ社会において義務化されていた。献金のように自由に神への応答として、ささげるものとは根本性格が違います。キリストは神の子としての自由をここで語られたのでしょう。

 しかしここで主イエスはまるで童話のような話をされます。「湖に行って釣り針を垂れなさい。そして最初に連れた魚を取って口を開けると、銀貨が見つかる。それを取ってわたしとあなたの分として納めなさい。」

 魚の口から銀貨、という不思議な話ですが、いずれにせよ、ここで主はご自分の分とペトロの分の神殿税を納めるのです。

 何度も申し上げますが、キリストは神殿税というユダヤ人が作り出したものに対して、自由な方です。ご自身それを深く自覚しておられた。だから当然出さないという自由があった。しかしその上でキリストは彼らを躓かせないようにしよう、と言われて神殿税を納めるのです。これがここでキリストがわたしたちに示しておられる自由です。

自由ということは、そもそもこの神殿税という制度、考え、拘束から自由だということです。しかしキリストはその自覚において、その都度、それと向き合い、自由に判断していかれる。それは、ユダヤ教に対してすべて自由だから反対するとか、無視するというようなことではなく、律法を廃止するためではなく成就するために来た、と言われたように、ユダヤ教と向き合い、その時々に判断される。キリストはここで、自由である自覚の中で、自らの意志で税を納めていかれた。それはとても大切な大事なことを示されていると思われます。

それはキリストが神の独り子であるにもかかわらず、僕の形をとって、この世界に来られたこと、と深く結びついています。キリストはすべてに超越しておられる方です。しかし敢えてこの世界に来られてこの世界の中で、この世界と向き合い、人間と向き合い、その人間に仕えて、最後は背負ってくださった。22節から23節の主の言葉で弟子たちは非常に心を痛めたとあるのですが、この主のあなたたちのために、最後まで、その救いのために仕えていく、という御意志があるからこそわたしたちは救われたのです。心を痛めたというけれど、この御意志がなければ、わたしたちは罪の中にほおっておかれたままですよ。キリストはわたしたちのために、この世界に、この人間に深く仕えてくださる主なのです。神殿税の話もこの主の十字架へと向かう歩みという大きな流れの中で読む必要があるのです。自由であるキリストがその自由の自覚の中で、この世界の事柄と向き合い、人間と向き合い、一つ一つその都度判断していかれる。そしてその根底には、人間に仕えていくキリストの姿がある、ということをわたしたちは受けとめていきたいのです。