教会暦・聖書日課による説教
2025.3.2.降誕節第10主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書18章1-14節『 迷い出たものを探す神 』
菅原 力牧師
弟子たちが集まっていた時のこと、弟子たちは主イエスのところに行って、こういう質問をしました。「いったい誰が、天の国で一番偉いのでしょうか。」この質問を直訳すると「天の国ではいったい誰が大きいのでしょうか」大きいという言葉を使って質問したのです。弟子たちは他の福音書では、自分たちの中でだれが一番偉いか、という議論をしていたとありますが、ここでは天の国では、と舞台を変えて質問しています。一番偉い、大きい、ということに対する関心が強かったのでしょう。すると主イエスは一人の子どもを呼び寄せ、真ん中に立たせて、こう言われました。「よく言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。だから、この子供のように、自分を低くする者が、天の国で一番偉いのだ。」
これは、驚きというよりも衝撃的な主イエスの発言です。
弟子たちは、なぜか自分たちが天の国に入れることを自明のこととして、質問している。天の国では誰が一番偉いのか、その中で自分はどれほどの位置なのか、と思わせるような発言です。しかし主イエスの言葉は、出発点から違っていました。そもそも天の国に入るものは、という話なのです。誰が偉いかではなく、天の国に入るものとは、という話なのです。ここで天の国とは、終末の主の審判において神に受け入れられていく、ということでしょう。
それは、「心を入れ替えて、」「子どものようになる」ことだと言われるのです。心を入れ替えてとは、回心ということです。悔い改めるということです。主イエスが宣教のはじめに言われたことです。悔い改めて福音を信じなさい、ということ。つまり、自分の力や自分の持てるものに頼るのではなく、イエス・キリストの向き直って、キリストの信実に目を向けて、キリストによって生きること、悔い改めとはそういうことです。「子どものようになる」とは福音書に何度か同じような言葉が出てくるのですが、ここで言われる子どものようにとは、親にすべて身を任せて、自分の力ではなく、与えられたものを受けて歩んでいくもののことです。実際にわたしたちが子どもに帰れるわけでもなく、子どもがいたずらに称賛されているというのでもない。そのような生きる姿勢、存在の在り方です。これは口先だけの信仰ではない。頭の中だけでの信仰でもない。存在そのものの在りようが変わらなければならないこと、それを主は心を入れ替えて、子どものようになる、という言葉で弟子たちに伝えたのです。深いところに突き刺さる言葉です。「自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国で一番偉いのだ。」自分を低くして、というのは謙遜になるというようなこととは似て非なることです。謙遜という言葉は相手に対する配慮や遠慮から自分を敢えて低くするということですが、キリストがここで言われるのは、神の前での己の低さそのものに気づかされ続けていくことです。自分が神の前で低い、小さな、存在であるか、ということを知り続けることです。弟子たちの質問の中には、人間の中にある、誰がより偉大なのか、誰が大きいのか、という人間の自己肥大化の傾向が見え隠れしている。だがキリストがここで言われたのは、自分の低さを知り、ただ神により頼む者、その者こそが天の国では大きいのだ、ということです。5節の主の言葉は、低いものであることを知ることと、小さな存在を受け入れることとの関係性を語っているのです。
そしてそれに続いて、6節から9節の主の言葉が記されています。この言葉が1節から5節の段落に時系列的に続けて語られたのか、全然別の場所、別の機会に語られたものなのか、判断するのは難しい。従って、どう繋がるのか、繋がらないのか、の判断も難しいのです。18章の主の言葉は、弟子たちに向けて語られた言葉、そしてキリストを信じる男女キリスト者に向けて語られた言葉を集めた箇所です。ですから強引につなげるというよりも、緩やかなつながりを見ておくことが大事です。ここでは話題は、「つまずかせる」と「つまずき」ということに移っていきます。つまずきという言葉のもともとの意味は、「転倒」ということです。弟子やキリスト者を転倒させるとは、信仰から離反させる、離れさせていく、ということです。
ここで二つのことが言われています。一つはキリストを信じる小さなもの、その一人を転倒させるものは、石臼を首にかけられた深い海に沈められる方がましだ、という言葉。もう一つはこの転倒を齎すものは不幸だ、ということです。深い海に沈められるとか、両手両足の切断という話は、最後の審判を思えば、その方がよい、という話なのです。ずいぶんと強烈な話です。
この二つのことが語っているのは、信仰の歩みにおいては、転倒させられることもあり、逆に転倒させるものとなることもある、ということへの警告です。
つまずき、といえば外からのものでつまずく、というイメージを持ちやすいのですが、自分自身によっても人は転倒していきます。自分を大きくしようとか、自分の思いに振り回されていくことで、キリストから離れていくということはよくあることで、他の人によってもつまずき、出来事によってもつまずき、些細なことにもつまずき、自分自身によってもつまずくことを思うと、つまずきは避けられない、というキリストの言葉は身に沁みるのです。わたしたちの内と外には、キリストから自分を離れさせるものが溢れている。つまずきを避けられない以上、わたしたちはつまずきを経験して尚、キリストにより頼む、子どものような在りよう、信仰の姿勢が問われるのでしょう。
そして、10節から14節には、迷い出た一匹の羊を探しに行く話が語られています。この話はルカ福音書のたとえ話で有名な話です。ここで主イエスが語られるのは、一匹の迷い出た羊を探す方がいるということです。そして迷い出た一匹を見つけたら、その一匹のことを喜ぶだろう、というのです。そして、「そのように、これらの小さなものが一人でも滅びることは、あなた方の天の父のみ心ではない。」と言われているのです。
迷い出た者は、小さなものなのです。天の国に入るのは、心を入れ替えて子供のようになり、自分を低くして、神の前で自分が小さなものであることを知るものなのです。この小さなものを神は探してくださる、たとえ迷子になっても探し出してくださる、とキリストは言われるのです。
今朝の聖書箇所には三つの話が主によって語られていました。先ほども申し上げたように、この三つを強引に結びつける必要はない。しかし通読して示されるものもあるのです。それは「小さい」ということ、「小さなもの」ということです。しかもわたしたちはしばしば、自分の小ささに気づいていない。大きくなることや、人と自分を比べて驕り高ぶりの中にあることも少なくない。一方でわたしたちはつまずかせる力や、つまずかせてしまう、不安定の中にある。そしてつまずきが避けられない自分をどうしようもない。
しかし、神の御意志は、この小さなものを見つめてくださっている。迷い出ても探し出してくださる。この小さなものを放っておかない。それはこの小さなもののために、御子イエス・キリストを与えてくださるということにおいて結実している神の御意志です。
ここまで読んできて、あらためて気づいた方も少なくないと思います。既にこの福音書の17章のところで、「小さい」ということは語られていたのだということを。キリストは弟子たちの信仰の「小ささ」を問題にされました。そしてそこでさらに「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら」と言われたのでした。
弟子たちの信仰が「小さい」という時の「小ささ」と、主イエス・キリストが「からし種一粒ほどの信仰」という時の極小の「小さな信仰」とは違う次元の事柄だ、という話をわたしはしました。その話を念頭において、わたしはここを読む必要があるのです。しかし弟子たちは、このキリストの言葉を聞きながらも尚、「大きさ」を問題にしていた。「天の国では大きいものとはだれなのでしょう」。忘れていたという話ではなく、キリストの言葉を全く受けとめていない、という鈍感さです。しかしキリストは何度でも弟子たちに語ってくださるのです。
「心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」それは、わたしたちが神の前で自分自身の救いのため、自分では何一つ持っていないものであり、むしろ自分の救いを妨げるような存在でもある、ということに気づかされていく以外にはない。弟子たちが心を入れ替えて子どものようになるのは、十字架の主、復活の主に出会うまでは無理だったということが、これらの福音書の記述でよく伝わってくるのです。
自分自身が自分の救いということにおいて、まことにまことに小さく貧しく、弱い存在であるか。しかしその小さな存在のために神はどれほどの愛と信実をわたしたちに注ぎ与えてくださるのか、キリストの十字架、復活と日々出会いながら、ただ神により頼んでいく、からし種一粒ほどの信仰を、感謝のうちに与えられていきたいと思うのです。