教会暦・聖書日課による説教
2025.3.9.受難節第1主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書18章15-20節『 天の父が叶えてくださる 』
菅原 力牧師
今日の聖書箇所は断片的に、聖句としてはよく知られている箇所ですが、マタイによる福音書の文脈の中で、丁寧に、注意深く聞いてまいりたいと思います。
15節は「きょうだいがあなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで咎めなさい。」という言葉で始まっています。きょうだいという言葉が漢字の兄弟(あにおとうと)ではなく、平仮名になっていますが、これは想像するに漢字で書くと男兄弟のことと受け取られかねないのですが、平仮名であれば、女のきょうだいも当然含まれるということで、平仮名になったのでしょう。つまり、このきょうだいとは血縁関係のそれではなく、弟子たちの群れ、教会の中の信徒同士のことを指しています。もし罪を犯したら、二人だけのところで咎めなさい、というのです。新共同訳では忠告しなさい、となっていたのですが、それよりももう少し厳しい、咎める、譴責(けんせき・悪い行いを咎め戒める)する、糾す(ただす)、ということです。「言うことを聞き入れたら、きょうだいを得たことになる。」耳慣れない表現かも知れませんが、これは大事な表現です。
弟子たち同士の中で、教会の中で罪を犯す。その場合、その罪とは、キリストの福音に反する行為行動であったり、言葉であったり、さまざまなことが考えられますが、それをまず、気づいたあなたが、二人だけのところで糾しなさい、というのです。これはとても、勇気が必要な、しかし大事なことであり、キリストを信じる者同士であればこその、教会の中であればこその譴責です。もしそこで自分の罪を認め、その罪の赦しを願うのであれば、きょうだいを得たことになる、とは、先週読んだ聖書箇所、迷い出た一匹の羊を見つける、ということになるのです。罪とは、キリストから離れることです。迷子の羊とは、羊飼いから離れた羊のことで、それはすなわち死を意味しました。滅びです。つまりここには罪を犯すことで、キリストから離れ、滅びへと向かう者に対する呼びかけがあるのです。罪を犯したものに、その罪を具体的現実的に指摘することは、とてもつらいことです。しかしそれは迷い出た一匹の羊を探し出すことに繋がることなのだ、ということです。
「聞き入れなければ、他に一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の人の証言によって確定されるようになるためである。」もし相手が聞き入れないならば、どうするか、証人をたてて、こんどはその証言者と共に譴責しなさい、ということです。この証人という考え方は仲間内の内緒話にしない、ということでしょう。秘密の話、というようなことではなく、罪の指摘と、その立ち帰りを証人のもとで糾すということです。「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。」主イエスが言われる教会とは後に生まれてくるキリスト教会の原型となる信者の群れのことでしょうが、今はあまり難しく考えずに、その証人による譴責が聞き入れられなければ、教会に申し出よというのです。そこではじめて、公にするということです。公にすると言っても今でいうところの教会総会の議題にするというようなことではなく、役員会で取り上げ、役員会で本人を交え話し合い、役員会において譴責するということです。
「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か、徴税人と同様に見なしなさい。」それでもなお、悔い改めないのなら、異邦人、徴税人とみなす、というのはここでは、交わりの外、ということです。
戒告を繰り返し、それを聞き入れない場合、除名、ということです。
おそらく聖書を読み始めて日の浅い人や、馴染みの少ない人にとって、聖書の中に、このような言葉があることに驚くかもしれません。実際、この聖書箇所の直前には、迷い出た羊の話があり、直後にはきょうだいが罪を犯したなら何回赦すべきか、という話があり、七の七十倍、ということが語られているのです。教会とはひたすらに赦すところではないのか、と思う人がいても不思議ではありません。
しかし、教会というのは、罪の赦しという名のもとに、人の罪に無関心になるところでも、それに対してどうでもいいと思う場所なのでもないのです。
むしろ、人間の罪がいかにその人を滅ぼすか、ということに対して敏感であり、謙虚である場所が教会なのです。だからこそ、信徒の群れ、教会における罪に対して、このような段階を追った譴責をするのです。
ここで言われていることは、教会の歴史の中において、とても大事な事柄として受けとめられてきました。今その歴史を振り返ることはとてもできませんが、現在の日本基督教団という一つの教会においても、これらは「戒規」と呼ばれ、いろいろな段階を追って、罪を指摘し、悔い改めと導く制度があるのです。多くの教派教会ではチャーチコートと呼ばれる教会裁判所があり、こうした事柄が真剣に扱われてきたのです。信徒であれ、教職であれ、この戒規に付される場合があるのです。
この問題をわたしたちはどう受けとめていくのか、丁寧に考えていかなければなりません。先程申し上げた教会とは赦すところで、裁くところではないのではないか、という理解は、結局ところ赦すということがどういうことなのか曖昧にされてしまう。赦すとは水に流すとか、見なかったことにするということではないのです。罪がはっきりと自覚され、罪がどれほど深刻なものかがわかり、悔い改めと導かれていく、そこでこそ赦しは赦しとして受けとめられていくのです。もちろんわたしたちは、神によって大きな赦しの中にあるものです。しかしだからといって罪の自覚などどうでもいいということではないのです。
「よく言っておく。あなた方が地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。」ここで結ぶ、と言われているのは、罪と結ぶということであり、解かれるということは罪から解き放つことです。つまり教会において罪と定められることは、たんに地上の事柄としてとどまらず、天もまたこれに関わるというのです。そして教会が罪を解き放つことは天にもつながるということです。教会に、神はそのような働きを委ねておられるということです。教会は福音を宣べ伝える使命を与えられているのですから、また当然その福音に反するもの、キリストに反するものを語り、証言する大きな責任、約束が与えられているのです。そしてそこには当然、危うさもあるのです。
「また、よく言っておくが、どんな願い事であれ、あなた方のうち二人が地上で心を合わせるなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださる。」言うまでもないことですが、この文章はこの文脈の中で読まれるものです。文脈を離れて好き勝手に読まれるべきものではない。例えば、あなた方のうち二人が心を合わせて、宝くじがあたるようにと祈るなら、天の父がそれを必ず叶えてくださる、というわけではないのです。ここでは、きょうだいの罪を糾していくことの重さ、むずかしさに関わっているのです。一人の人間の罪と向き合うということは、自分自身一人の罪人であることを自覚すればするほど、重い課題であるということは身に沁みてわかるのです。しかしそれでもなお、滅びへと向かう羊を探し続けることの大事さを知らされているものは、祈るのです。「心を合わせて」祈り、神の導きと支えを尋ね求めるのです。この事柄に向き合って罪を犯した人のために、この事柄と向き合う教会のために祈るのです。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」最初に申し上げたように、この主の言葉はこれだけ切り抜いて、文脈抜きで読まれるべきものではありません。罪人の譴責と悔い改めのために心を合わせて祈り続ける、そこに、キリストが現臨してくださるのです。そこで先立って祈られるキリストがおられる、ということです。キリストがわたしたち罪人のために先立って祈ってくださっているのです。キリストが迷い出た羊を探し出していかれるように、先立って歩んでおられるということです。
教会はその長い歴史の中で、こうした問題に繰り返し向き合ってきた。時には右往左往させられながら、途方に暮れながら、こうした問題に向き合ってきた。
今日の聖書箇所の言葉は教会に託されている働きの重さを語るとともに、教会自ら、そしてわたしたち一人一人が、自分が一人の罪人であり、その罪をキリストの十字架によって赦されてきたし、今も許され続けている、ということを自覚的に受けとめていく中でのことです。赦されている自覚の中で、罪の問題と向き合うこと、そのことがここで語られているのです。それは、心を合わせて祈り、先立って歩んでくださるキリストに出会いながら、進めるほかない事柄なのだ、ということを受けとめ続けていくことが必要なのです。
この聖書箇所、頭で読むだけでなく、わたしたちの身体を通しても、読み、聞き取っていきたいと思います。