教会暦・聖書日課による説教
2025.3.16.受難節第2主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書18章21-35節『 赦されること、赦すこと 』
菅原 力牧師
とても有名なたとえ話が出てくる聖書箇所です。しかし読めば読むほど不思議なたとえ話です。
発端は弟子のペトロが主イエスにこう質問したことから始まっていきます。「主よ、きょうだいがわたしに罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」ペトロがどうしてこういう質問をしてきたのかは、わかりません。しかし少々驚かされる質問です。なぜなら七回という時の七は完全数としての七で、どれだけでも赦すべきなのでしょうか、と問いかけているからです。同じ人を七回赦す、というだけでも大変なことです。ところが驚かされるのは、主イエスのお答えです。「七回どころか、七の七十倍まで赦しなさい」と答えられるのです。完全数の七十倍だ、といういい方がすでにウルトラです。完全性をさらに上回るということは無限ということです。主イエスはどうしてこんな実際的ではない答えをしたのでしょうか。無限に赦す、それは悪をはびこらせることになるのではないか、というような声が聞こえてきそうです。
主イエスはそれに続いて一つのたとえ話を語ります。
いつも言うことですが、譬は何かをわたしたちに伝えたいために語られるものです。何かを語ろうとしているのです。それを読みながら考えていくことが必要です。「天の国は、ある王が家来たちと清算しようとしたのに似ている。」するとそこに一万タラントン借金している家来が連れてこられた、というのです。この一万タラントンというのは、とにかくウルトラな数字です。計算方法にもよりますが、8千億、というような数字です。いったいどうやってこんな借金を作ったんだというような、国家規模の数字です。でも譬には、そうしたウルトラな部分が多くの場合あるのです。当然返済できない。王はこの家来に、自分も妻も、子も、持ち物も全部売って返済するように命じるのです。当時のユダヤの法では妻や子供を売ることは禁じられていました。しかしここではそれももちろん承知の上で、度外視して、全部売って返済しろというのです。もちろん全部売ったからどうなるという数字ではない。しかしそうでもして返済の意志を示す以外ない、という返済不能な莫大な借金なのです。家来はひれ伏して、「どうか待ってください。きっと全部お貸ししますから」というのです。この譬を聞いている聴衆は、できもしないことを苦し紛れに言っているにすぎない、と思って聞いていたかもしれません。しかし物語は意外な方向に向かっていきます。「家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、借金を帳消しにしてやった。」王はなんと、家来の巨額な債務を免じるのです。返済期間を長くするとか、返済額を減額するというのではない。全額免除、帳消し、というのです。驚くべきことが起こるのです。
帳消しにしてもらったこの家来(紛らわしくなるので、この家来を大借金の人、と呼びます)は、王の前を辞退して後、こんどは自分が百デナリオン貸している仲間のひとりに出会う。百デナリオンは50万とか、せいぜい百万の単位のお金です。「彼はその仲間の一人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』と頼んだ。しかしし、承知せず、行って、借金を返すまでその人を牢に入れた。」仲間のひとり(小借金の人、と呼びます)も大借金の人と同じように返すからと言ったのです。しかし大借金の人は赦しませんでした。それどころか牢屋に入れたのでした。
これを見ていた仲間たちは、非常に心痛め、王に一部始終を報告したのです。王は大借金の人を呼び寄せ、「不届き者。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も仲間(小借金の人)を憐れんでやるべきではなかったか。そして、主君は怒って、借金を全部返すまで、家来を拷問係に引き渡した。」というのです。ここまでが譬本体です。
この譬、どういう印象をまず受けたでしょうか。
この大借金の人の態度を責める人は少なくないと思います。なぜなら彼は莫大な借金を赦されたのですから、小借金の人を赦さないのはあまりに酷い、と感じるからです。確かに譬はそのように誘導しています。
しかしこの大借金人のとった行為行動は、それ自体としてみれば、ごく日常的な、残酷ではあるけれど、普通の態度です。なぜなら、大借金の人は事実この人に金を貸していて、小借金の人が返さない以上牢に入れる、債務拘留できるのですから。当時の法の範囲内のこと。だからユダヤ人の日常においては、ごくごく普通にあることなのです。この人の行為行動にある種の憤りを覚えるとすれば、それは彼がその前に莫大な借金を免除され、赦された、ということがあるからに他ならないのです。
つまり、それは、この王の態度が、莫大な借金を全部帳消しにする、というあまりに桁はずれな行為の中で見る時に、これほど大きな信じがたい赦しを与えられたのに、この人のやっていることは何だ、という具合に彼の行動を見るからなのです。
もし王の赦しがなければ、彼のやっていることは、普通の態度、気にも留めない態度なのです。しかし、王の赦しの中で見る時に、この人の行為行動は我慢できないものになるのです。それがこの譬の語っていることの一つです。それはこういうことです。王の赦しは、神の赦し。わたしたちは神に対してあまりにも大きな借金、つまり罪を犯している。にもかかわらず、神はわたしたちをすべて赦してくださり、新たに生きるようしてくださった。そのわたしたちが、日常の歩みの中で、自分に対する小さな罪を赦せないとしたら、それはどうなのか、とこの譬は語りかけているのです。
さらにこの譬を通してわたしたちが示されていくことがあります。
それは、この譬が27節で終わっていたら、ペトロの質問によく呼応しているということです。どれだけ赦したらいいのですか。無限に。という対話と27節までの話であれば、呼応している。今言ったようにあなたは赦されているのだから、日々の歩みの中で赦して生きなさい、という落ち着きのいい話になるのです。しかし実際には、この譬は28節以降へと続くのです。この王はこの家来の赦さない態度に対して怒って、先の赦しを取り消し、借金を全部返すまで拘留するのです。これは何度赦したらいいのか、というあのペトロの質問に無限に、と答えた主イエスの譬としては、矛盾していないか、そうここを読んで感じた人もいるでしょう。王はここで先ほどの赦しを取り消し、罰を与えるのですから。
しかしこの譬の中に、矛盾があると捉えるのか、対極的な意見の並立があると捉えるのか、ここから先がこの譬を読む醍醐味になっていくともいえるのです。
もう一度このマタイによる福音書の18章全体を丁寧に読み直してみたいのですが、ここには異なる視点の言葉が、次々と出てきます。
最初に「天の国ではいったい誰が一番大きいのか」という弟子たちの質問があり、「心を入れ替えて子どものようにならなければ天の国に入ることはできない」神に向き直り、ただ神により頼むものこそ天の国に入るのだ、というキリストの言葉がありました。そして次にはわたしを信じるこれらの小さなもののひとりを躓かせるものは、深い海に沈められるがましだ、という裁きと受け取れる言葉がでてきます。そして次いで、迷い出た羊の話。迷い出た一匹の羊を探し出す喜びが語られた言葉。そしてさらに進んで、先週読んだきょうだいが罪を犯した時の譴責について。さらに、その罪の課題の中で二人または三人が心を合わせて祈るのなら、その中にキリストがいてくださるという言葉。
ここにはたくさんの言葉が語られていますが、まず、二つのことが語られている。一つは悔い改めて子どものようにより頼む者となり、キリストに向かって生きるということ。それはキリストの弟子たるものの、根本的な指針というべきことです。もう一つは、その小さなものを躓かせるものはさばかれていくということ。それは共同体の中で、これはダメだということです。共同体の中でここは境界線だということです。
この二つのことが語られたうえで、さらにその後に、迷い出た羊を探し出す譬が語られている。これは何かといえば、共同体から自ら外に出てしまった者を探す神、ということなのでしょう。悔い改めて、神により頼んで生きるキリスト者の群れの中に、躓きを与えたり、自分を大きくしようとする者はいるし、罪を犯すものもいる。それはさばかれるべきことである。まして今日の譬が語るごとく、自分が神によって赦され、神との関係を壊しているのにも関わらず、神によって関係を回復されているのに、自分の日常の歩みの中で人を赦さず、関係を壊していくもの、その者に対して神はお怒りになる。この二つのことをわたしたちはそのままに聞かなければならない。矛盾だ、などとうそぶく前に、神は赦し、神はさばく、ということをそのまま受け取ることがここで求められている。一度赦したら、ずっと赦し続けるなどとこちらの都合で理解してはならない。裁きはある。それを今日の譬は語っているのです。
けれども、、マタイ18章は、赦されているにもかかわらず、赦しを受けとめず、自分から関係を壊している人間を探し続ける神の愛も語っているのです。その神の自由を、そのままに受け取ることが必要で、自分に都合よく一つにまとめることはできない。神は神の前で自分を小さくするもの、より頼むものを喜ばれる。そして自分自身に拘泥して、自分の罪によってつまずかせるものを裁くのです。きょうだいに対して罪を犯すものをそのままにはしない。赦されているのに赦さないものを神はお怒りになる。そして神は、自分を大きくするもの、自分の罪の中に生きるものを尚、探し出そうとされる。これはすべて神の恵みです。赦すこともお怒りになることも、探し出そうとしてくださることも、すべて神の恵みであり、神の自由なわざです。
わたしたちはそのことをこのマタイによる福音書の18章から受け止め、信じて、歩んでいきたいと思うのです。