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教会暦・聖書日課による説教

2025.4.27.復活節第2主日礼拝説教

聖書:ヨハネによる福音書20章19-31節『 真ん中に立つ主 』

菅原 力牧師

 先週わたしたちは、主が復活なさったその日のことを、マグダラのマリアの視線で共に聞きました。彼女は、早朝からさまざまなことに出会い、出会わされながら、やがて弟子たちのところに行き、「わたしは主を見ました」と復活の主の証言をした、先週の聖書箇所はそこまで報告されていました。

 その同じ日の夕方、「弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。」というのです。弟子たちは鍵をかけて、家の中に閉じこもっていたのです。その理由を、「ユダヤ人を恐れて」と福音書は書いています。それはつまり、主イエスを十字架にかけて勢力、大祭司や最高法院のメンバーたちが主イエスの弟子たちを見つけ次第逮捕し、事と次第によれば、弟子たちも殺す可能性に弟子たちが怯えていた、というふうにも想像できます。しかし弟子たちが怖れているのは、それだけではなかっただろうと思います。一つには、主イエスの墓から遺体がなくっている、ということは当然誰かが盗んだのではないか、とユダヤ教当局は考えているのではないか。だとすれば一番先にその容疑が向けられるのは弟子たち、自分たちだ、と弟子たちは思って怯えていた。

 しかしもっと大きな恐れがあったのではないか。それは弟子たち自身の中にある不安から来る怖れです。主イエスが復活して、「わたしは主を見ました」とマグダラのマリアは言った。弟子たちの中には、自分たちが主イエスを裏切ったことで、主イエスを見殺しにした、という罪悪感の中に陥っていた者もいたでしょう。仮に主イエスが甦ったとして、自分たちは主イエスから見てまぎれもなく裏切り者、赦しがたい者たち、ということになり、復活の主イエスと出会うことも恐ろしい、という怯え。それに加えて、自分たちの愚かさ、弱さ、いい加減、に弟子たち自身がやりきれず、自分の内に閉じこもっていく、その全部を含めて、「家の戸にはみな鍵をかけて」閉じこもっていたのではないでしょうか。

 だが、主イエスは弟子たちの恐れ、不安、やりきれなさ、の中に、主イエスご自身から、甦りの主、復活の主として弟子たちの真ん中に立ってくださった。このヨハネ福音書の報告によれば、主イエスは鍵のかかった家に扉を開けることもなく入ってこられたというのです。復活の主だからでしょう。こういう福音書の記述、それは不思議を説明しようとしない、という態度です。不思議を不思議なままにわたしたちに差し出している。主は驚くべきことに、弟子たちの真ん中に立っている。それはまさに復活の主イエスの身体の不思議として語られています。

 

どういうことなのか、もう少し考えてみると、わたしたちがどんなに自分の罪や、愚かさや、やりきれなさに自分の内に入り込んでいくとしても、主はわたしたちの真ん中に立ってくださる主だということです。この世界は、どんなに自分たちの罪に押しつぶされそうな世界であったとしても主イエスは甦りの主としてわたしたちの、そしてこの世界の真ん中に立ってくださる、ということ。そして主イエスは「あなた方に平和があるように」と宣言された。

 ここでいう平和とは、戦争がない状態、というようなことを指す言葉ではなく、あるいは力で他の力を制圧して作られるような状態のことでもなく、神が共におられる、シャロームということです。インマヌエルということです。

 神が共におられる、それはわたしたちが弟子たちのように、主イエスに従うことができず、弟子たちのように裏切り、神の前で罪を重ねてしまうような存在であっても、神はイエス・キリストの十字架と復活の出来事において、神の業において、わたしたちの救い主として、わたしと共に在ることをやめない、ということです。

 キリストの十字架は、確かにさまざまな人々によってキリストが殺されたという出来事です。しかしそれ以上に、十字架はキリストの御意志であり、キリストは十字架を担うことをおのが使命とされた方なのです。そして神はこの十字架をよしとされ、受け入れ、我らの罪を負わせ、キリストを甦らせることで、わたしたちが罪赦されたものとして、新しいいのちを生きることを意志されたのです。それはまさに神のわたしたちに対する救いの意志の発現です。それが神のわたしたちと共に在り続ける意思の現れです。「あなた方に平和があるように」という言葉は、そのことがすべて盛り込まれた一言、つまり救いの宣言です。

キリストはご自分を裏切った弟子たちを赦し受け入れた。確かにそうです。しかし、ただ赦し受け入れた、ということではなく、その者たちのために十字架にかかられたのです。自ら罪を負うことを意志されたのです。「そういって、手と脇腹とをお見せになった。」そこには二重の意味があるのです。一つは、十字架に事実架かって死んだ私だ、そのわたしが復活したのだ、ということの手と脇腹。もう一つは、この傷ついた手と脇腹こそが愛のしるしだ、弟子たちへの、そしてすべてのものに対する愛のしるしであり、この傷跡は救いの意志の現れだ、という意味が込められていましょう。

 そして主イエスは、『「あなた方に平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなた方が赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなた方が赦さなければ、赦されないまま残る。」』と言われたのでした。

 キリストは甦られて、弟子たちのもとに来て下さり、真ん中に立ってくださった。そして十字架と復活の出来事によって人間の罪は負われ、赦され、生かされる、神はわたしたちの救いの主として、共にいてくださり、共に在り続けてくださる、その福音を宣言したのです。そして間髪を入れず、その福音を聞いた者として遣わす、というのです。そして創世記において神が人に息を吹きかけられて生きるものとしてくださったように、今イエス・キリストはこの福音を受けた者に息を吹きかけて、聖霊を受けよ、と言われるのです。ヨハネによる福音書においては、使徒言行録とは違い、復活の主との出会いによって救いを知らされたものが即派遣、そしてそこで聖霊が注がれるのです。

 そしてこの聖霊を受けた弟子たち、すなわち教会が、福音を宣べ伝え、罪の赦しを告知していくのです。

 弟子たちはまさに驚きの渦中にあっただろうと思います。十字架で死んだ主イエスが甦るという驚くしかない出来事に出会い、復活した主が、十字架と復活の主が、共におられるという、神がどんな時もこのキリストにおいて共にいてくださるという福音の告知を聞き、すぐに派遣される。そして聖霊を受けよと言われる。これは驚くほかない出来事の連続です。

 弟子の中のひとりにトマスという人がいました。彼は、他の弟子たちが復活の主に出会ったあの日、そこに居合わしておらず、主イエスに出会っていませんでした。トマスは他の弟子たちから聞いた主イエスの手と脇腹の跡に、自分のこの指を入れてみなければ、信じない、と言っていました。八日の後、つまり主が甦った一週間後の日曜日、弟子たちは同じように鍵をかけて家の中にいた。そして主が訪れて、弟子たちの真ん中に立ち、平和があるようにと告げる、まったく同じことが繰り返されるのです。

 昔からこのトマスのことを懐疑家、と呼んだり、疑り深いトマスと呼んだりもされてきました。しかし、トマスが特段疑り深いとはわたしたちは思えないし、むしろトマスの思いは、自然なことと思えるのです。そもそもわたしたちの常識、経験、知識では復活は受け取れるものではないのですから。トマスの言葉は、普通の思いと言えるものです。キリストは、トマスに対して、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。」と言われて、信じられないトマスの思いを受けとめます。それは十字架にかかって死んだ私が、今甦りの主としてここに、あなたたちの真ん中に立っているのだ、というキリストからの宣言と言っていい態度です。

 トマスは答えて「わたしの主、わたしの神よ」といった、と福音書は記しています。このトマスが疑いから主イエスを神として告白する劇的な場面、さまざまな思いが呼び起こされる場面であろうかと思います。復活の主との出会いは、このようなものでしかない、という人もいるでしょうし、驚きつつも戸惑う人もいるでしょう。しかし、福音書はこのトマスの出来事も、不思議のまま報告しているのです。

 すでに申し上げたように、今日の聖書箇所で、恐れと失意の中にあった弟子たちに主イエスがやってこられ、真ん中に立たれたこと、そして「平和があるように」「神が共にある」と福音を告げ知らせたこと、すべてが不思議なのです。わたしたちの経験や知性で受け取ることはできない。それだけでない、トマスが主イエスとの出会いの中で、信仰の告白する者へとされたことも、不思議としか言いようのない出来事なのです。つまりこれらは皆、神が働き給う神の業なのです。神の業はわたしたちにとっては、不思議であり続ける、驚きであり続けるものなのです。だからヨハネはその不思議について説明などしようとはしない。

 弟子たちの群れ、すなわち教会はこの福音を、この救いを受けて、遣わされていく、これを宣べ伝えていく。わたしたちの経験の中の出来事でもなく、知性でも捉えられない、この福音の恵みを宣べ伝えていく。それが可能とされるのは神から与えられる聖霊の働きのゆえであり、聖霊の働きの中で、わたしたち人間はこの福音の言葉を、救いの言葉を宣べ伝え証言していくのです。

 主イエスがトマスに「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は幸いである。」と言われたのは、あなたは今、わたしを見て信じた、だが、わたしはやがて、父のもとに帰る、天に昇って、目には見えなくなる。

 大事なことは、十字架と復活の救いの出来事を語る言葉、教会が語り続ける言葉、その言葉において、復活の主と出会い、神の御わざに出会い、神の救いの意志に出会い、イエス・キリストの信実に出会うことだと、キリストは伝えられたのです。