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マタイによる福音書連続講解説教

2025.5.4.復活節第3主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書19章13-30節『 永遠のいのちを受け継ぐ 』

菅原 力牧師

 今朝は本文の繋がりで、19章の13節から30節まで読みましたが、28節以下は、次週に聞き、今朝は27節までに聞き、神を礼拝してまいりたいと思います。

 はじめに16節以下から聞いていきます。主イエスのもと一人の人がやってきました。彼はこう主イエスに尋ねます。「先生、永遠のいのちを得るには、どんな善い事をすればよいのでしょうか。」永遠のいのちと言うのは、終末における救いに与るということで、天の国に入るためには、神の最終的な救いを受けるにはどんなよい業をしたらいいのか、とこの人は尋ねたのです。主は、「いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」とお答えになる。彼が「どの戒めですか」と尋ねると主は『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父と母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』と十戒の戒めを示すのです。おそらくユダヤ人であれば、誰も知っていることでした。するとこの青年は「そういうことはみな守ってきました。まだ何が欠けているでしょうか。」と言ってきたのです。そんなことは熟知しているし、守ってきた。それ以外に何か欠けているものはないか、というのです。

 そこで主イエスは彼に言うのです。「もし完全になりたいなのなら、行って持ち物を売り、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それからわたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悩みつつも立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである、というのです。

 この主イエスと青年の話においてわたしたちに示される課題は大きく二つあります。一つは、わたしたちが救われるために何かをするということそれ自体が、わたしたちにとって可能なことなのかどうか、ということです。わたしが何かをすることで救われるのであれば、自分にできないことを求められれば、ギブアップするというだけではない、それはキリストの十字架と復活を不必要なものとすることになるのです。

 もう一つは、お金のことです。財産、持ち物、所有物、宝、それを手離す、ということが出てきています。それはこの青年にとってそうであるように、きわめて困難なこと、人間とお金の問題です。

 二つの大きなテーマがこの短い問答の中で、深く絡み合いながら、わたしたちをこの問いの中に引き入れていくのです。

 まず、二つ目のこと、人間とお金の問題から考えてみたいのですが、主イエスはこの問答の直後に、「よく言っておく、金持ちが天の国に入るのは難しい。」と弟子たちに語り始められます。

 マタイによる福音書を何度か通読すると誰でも気づくことがあります。それはこの福音書において主イエスは、くり返しくり返し、人間とお金の問題を語っているということです。

山上の説教の後半で、宝は天に積みなさい、あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのだ、と言われ、さらに、誰も二人の主人に仕えることはできない。あなた方は、神と富とに仕えることはできない、と語られました。きわめて印象深いのは、主イエスが有名な種まきの譬の中で、「誰でも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪いものが来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る」と語って、石だらけの地に蒔かれたものについて語った後で、「茨の中に蒔かれたものとは、み言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑がみ言葉を塞いで実を結ばない人である」と言われたのです。これらはもちろん大金持ちの人のことを念頭に置いて語られているのではない。ふつうの人たち、裕福でも何でもない、その人たちのことを念頭に置いて語られている。つまり人は誰でも、富の力の前で、富の誘惑の前で弱く脆い。気がついたら、神よりも富に頼んでいた、ということもしばしばですし、そもそも富に縛られていることに無自覚だったりもする。富の「誘惑」はここで悪いものと同定されている。マタイによる福音書で主イエスがお金のことを問題にするのは、わかりやすく言えば、わたしたちの神への信仰を危うくするのは、このお金の問題であるからに他ならないからでありましょう。

 マタイに限らず、福音書を読むと弟子となった者が、それまでの仕事を辞めて、主イエスに従っていったり、持ち物を売って主に従った人たちがいたことがわかります。おそらくは主イエスに従って、さまざまな場所を放浪する集団が最初期にあったのでしょう。それだけでない、主によって伝道に派遣される際には「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れてはならない。」と命じられています。金銀に頼らず、空手で伝道するよう命じられている。というか、お金を手離すことと、主への信頼が表裏一体のように語られているのです。わたしたちはこういう聖書箇所で立ち止まって主イエスの思いを、考えてみる必要があるのです。昔の話だ、というような割り切りをする前に、主イエスがなぜこれほどまでにお金のことを、富のことを語られたのか、そしてそのこととわたしたちがキリストに従うこととはどういう関係にあるのか、一人一人考えてみる必要があります。

 実際この富める青年との問答では、この青年が悩みつつ立ち去ったことで、富に対する執着が、神の救いを求める求めよりも上回っていたのかと、弟子たちは思ったでしょうし、財産に対する執着は強いと感じたのでしょう。だからこそ弟子たちは、主が「金持ちが神の国に入るよりも、駱駝が針の穴を通るほうがまだ易しい、」と言われたのに驚き、「それではいったい誰が救われることができるのでしょう」と尋ねたのです。ただたんに金持ちだけでなく、人間は誰でも大なり小なりお金に執着がないとは言えない。自分たちのことも含め主イエスに尋ねたのでしょう。ペトロはここで、自分たちは所有物を棄てて従ったが、見返りとして何がもらえるのか、と尋ねていますが、これもまた、彼自身が所有物に執着していることの証拠ともいえましょう。

 カトリック教会ではこうした富の問題を普通の信者と聖職者、修道士、修道女といった特別の信者たちとを二分して、理解する公式解釈があります。この特別な信者は、すべてのものを売り払い、富を手離し、ただキリストに従う。しかしプロテスタント教会は、こうした二分した解釈はとらない。

 聖書にはそのように信者を二分して、受け取るよう記されてはいない。富と信仰との緊張関係は一人一人の信徒にとっての課題である、一人一人にとっての事柄であることをみ言葉はかたっているのです。

 

 そして、もう一つの事、この青年と主イエスの問答で、永遠のいのちを得るための善行、ということをこの青年は持ち出してきているのですが、そもそもわたしたちの善行によって究極の救いが得られるのかどうか、ということがここで問われなければならないでしょう。

 わたしたちは今、イエス・キリストの十字架と復活の救いに与り、生かされています。しかしこの青年はこの時、十字架も復活も知らなかった。知る由もない。だからここでこの青年がこういう問いかけをしたことは、やむを得ないし、当然だとも思うのです。律法を守り実践し、自分の善行を積み重ねて救いへと至る。しかしその志は、自分としては実行できないことにぶつかって座礁するのです。

 この一人の青年の姿は、わたしたちにわたしの善行はどこで座礁するし、それによって救いが得られるわけではない、という痛切な現実を物語っています。彼は主から戒めとして『隣人を自分のように愛しなさい』と言われたことをみな守ってきました、と答えたのですが、つまり自分の善行の座礁をこれまで経験してこなかった、しかし今ここで彼は行き詰まっているのです。

わたしたちの救いは、わたしたちの努力によるのではなく、ただイエス・キリストの十字架と復活の恵みによって恩恵として与えられるものです。ギフトとして与えられるものです。この救いを受けて、わたしたちの行為の意味は変わるのです。それは救いを獲得するためのものではなく、救いを与えられたものの感謝と応答のしるしとして行為、証しとしての行為に変わるのです。キリスト者の行為は、すべてここから始まるのです。

当然お金との関係も変わる。お金に拘束され、お金に縛られ、お金に仕えるということではなく、神に仕え、神に聞き従う中で、お金を用いる、富を用いる、必ず変化していくのです。しかし、行為にしろ、お金にしろ、救われて尚、緊張関係はあるのです。行為にも、富にわたしたちはすぐに足を掬われる。行為で自分を評価し、これが天国行きの切符になるのだと思ったり、気がつくとお金に縛られている自分がいたり、わたしたち自身がキリストの救いを受けて、強い、確かな人間になるわけではないから、当然足を掬われる。

ただキリストの十字架と復活の救いを受けとり続ける中で、新たに受け直していく中で、「人にはできないが、神には何でもできる」その神の導きの中で、歩んでいくのです。自分の力に頼るのことの無力、ただ神のすがって、神の働きの恵みの中にあることを信頼して歩む、おそらくそのことの象徴が、子どもたちであり、「天の国はこのような者たちのものである」と言われているのです。