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マタイによる福音書連続講解説教

2025.5.11.復活節第4主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書20章1-16節『 葡萄園で働く者 』

菅原 力牧師

 今日与えられた聖書箇所はマタイ福音書の中でも殊の外有名なたとえ話です。このたとえ話からさまざまな解釈が生まれてきました。同時に、このたとえ話には、福音の中核となる教えが語られています。宗教改革のときには、この聖書箇所から大事な解釈が汲み取られてきました。

 譬の多くがそうであるように、この譬も天の国は、という主語で始まっている神の国、神の支配を主題とするたとえ話です。

葡萄園の主人が労働者を雇うために広場に出ていくのです。明け方、ブドウの収穫のための日雇い労働者を雇うために出かけていくのです。早朝、一日一デナリオンの約束で労働者を雇い入れ、葡萄園に送り込む。しかしこの主人は9時になるとまた広場に出ていく。何もしないで広場に立っている人々、とありますが、仕事をしたくないのではなく、雇ってくれる人がいなくてあぶれている人々のことです。主人はこの人たちも雇い入れ、同じようにして、12時、3時と広場に来て、その度に雇い入れるのです。夕方5時、日没近い時間、その時間にも主人は広場に行き葡萄園に雇い入れる。

さて一日の仕事が終わり、主人は管理人に「労働者を呼び、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」と言うのです。夕方5時からのものが来て、1デナリオン受けとった。最初の者たち、明け方から働いている者たちが来て、もっともらえるだろうと思っていたら、同じ1デナリオンだった。彼らは主人に不満、文句を言った。「最後に来たこの連中は1時間しか働かなかったのに、丸一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと同じ扱いをなさるとは。」すると主人は、「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受けとって帰りなさい。わたしはこの最後のものにも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」と言うのです。たとえ話としての筋はそういうことです。

 たとえを読んで、不公平な話だと思われた方は少なくないでしょう。実際長時間働いた者からすれば、納得できない話に違いない。たとえ1デナリオンという約束をしたとしても、わずかな時間しか働かなかった人が同じ1デナリオンをもらった以上、その不公平感は容易に拭えないでしょう。たとえははもちろんそれを承知で語っている。常識的には明らかに、不公平だからです。

 そしてそれは、わたしたちの中にも染みついている考えです。功績主義とでも呼ぶべき考え。働いた分に応じて報酬を得る、という考え。よく働いた者は多くの報酬を得、少ししか働いていないものは少しの報酬。その考えはおそらく当時のユダヤ社会の中でよくいきわたっていた考えです。律法をたくさん、確かに守る者は神からの祝福を受ける、律法主義の考え方ですよ。

祈祷会では今ずっとヨブ記に聞き続けています。ヨブ記に登場するヨブの友人たちは、表現の仕方はそれぞれ違っても、主張は同じ、応報思想を繰り返し語るのでした。応報思想というのは、ヨブが今これほど苦しんでいるのは、結局ヨブよお前が神の前で悪をおこなったからだ。だからその罰として苦しみを受けているのだ。だから神の前で今すぐ悔い改めて、神に立ち帰れ、そうすれば神はそれに報いてくださる。それが彼らの語る応報思想でした。

応報思想と言うのは、人間のやった善い事で、その報いが決定する、よいことをたくさんしたものはよい報いを受け、悪いことをしたものは悪い報いを受けるということです。つまり、よく働いた者は、多くの報酬を受け、少ししか働かないものはわずかな報酬、という考えと深く繋がっているのです。そしてそれは律法主義と深く繋がっているのはわかると思います。そしてそれはわたしたちの中にも相当深く巣食っているのです。例えば、クリスチャンとして立派な、善い行いをする者が、優れたクリスチャンであって、大したことなどしていない者は大したことないクリスチャンだ、というような考え。これは応報思想と同じです。この考え方は、働かざるもの食うべからず、という考えにも行き着くし、人間の評価は結局その人が何をどれだけしたかで決まる、という思想です。すると、例えば働きたくても、身体が不自由で働けない者や、障がいがあって少ししか働けないものは、応報思想からすればはじき出されていくのです。

 このたとえは明らかにそうした人間の持っている応報思想、功績主義、というものを持っている人間に向かって、神の意志が語られるたとえです。それは明快です。神は人間の功績や業績によって人間を評価するのではない、ということです。神の報酬は人間の行為に左右されない、という神の断固たる意志です。

 主人が「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」といっているのは、神の自由な、恵みの意志をよく表しています。人間から見て、それがどれほど不公平に見えようが、理不尽に見えようが、わたしはそうしたいのだ、といっている。その主人の言葉は、まさに神の自由な意思で与えられる恵みで、それは働いた分に応じた対価としての報酬ではない、神の恵みの賜物だ、ということです。神の恵みの意志は応報思想の枠を自由に超えて実現する。

 このたとえが興味深いのは、神の意志を容易に受け取ろうとしない人間の現実がこの短いたとえの中によく表れているということです。人間は実にしばしば神の自由な意思を自分たちの理屈で払いのけようとするのです。自分たちの理屈に固執して、神の溢れるばかりの恵みの福音を受けとろうとしないやっかいな存在、それがわたしたち人間なのだ、ということがこのたとえには、描かれている。

しかし同時に、神はそのような人間に対して尚、ご自身の断固たる意志をこの世界で貫徹される、そのことをこのたとえは語るのです。14節以下にはこうあります。「自分の分を受けとって帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分の者を自分のしたいようにしてはいけないのか。それとも、わたしの気前の良さをねたむのか。」15節の後半の言葉は原文を直訳すると、「それともわたしが善いために、君の目がよこしまになったのか」となります。わたしが善いとはわたしが完全という意味です。この主人は早朝から働いた人に対しても約束通りの賃金を払い、何ら不正を行っているわけではなく、彼らも安心して帰れるものを与えている。そして主人の自由な意思でこの最後の者にも、同じように恵みを与えたいのだ、との意思を示す。それはこの主人の完全さ、主人の百%自由な全き対応です。それぞれに対応してくださっているのです。そのことがあなたの目をよこしまなものにしたのか、というのです。それが気に入らないのか、と問い返しているのです。

最後のもの、その人は1時間も働いていないかもしれない。それは早朝から丸々一日働いている人にとっては、働いたうちに入らないかもしれない。しかし、主人には、もともと働いた分だけ、働きに応じて支払おうという気持ちはなかったのです。この主人は5回も広場に足を運んでいます。その度に仕事にあぶれた人がいた。いろいろな事情があったのだと思います。しかし主人はその度に雇い入れています。葡萄園に招き入れています。一人一人を招き入れたいからです。

夕方5時、これはユダヤの当時の呼び方では第11刻と呼びます。古来、この夕方5時に葡萄園に招かれた人のことを、第11刻の人、と呼ぶ人たちがいます。この第11刻の人たちは社会的な弱者だったかもしれない。からだの不自由な人たちだったかもしれない、労働力とみなされない人たちだったかもしれない。しかし神にとってそれは関係ないこと。神にとってその人も、最初からの者も、一人の人。神から見てかけがえのないその人なのでしょう。そしてその一人一人を、葡萄園に招き入れる、そして神の恵みを与える、それが神の自由な意志なのです。しかし人間はその神の自由な意思をなかなか受け取れない。まさに神から与えられる信仰においてしかそれを受けとることはできないのです。

 たとえの最後の言葉16節は先週読んだ箇所の最後と語順こそ違え同じ内容の言葉です。考えてみると不思議な言葉です。いったい誰が後の者なのか。今日読んだたとえで後にいるものというのは、最後のもの、第11刻の人、というのはわからないでもないですが、この人たちが先になるとはどういうことなのでしょうか。最後の者が先に天の国に入るというのでしょうか。ましてや先週読んだ聖書箇所における先にいるものとは、誰なのでしょうか。たくさんの所有物を持っていた青年でしょうか。そうだとしてあとの者とはだれなのでしょうか。

 自分は何もかも棄ててあなたに従ってきました。では何をいただけるのでしょうか、といったペトロは先の者なのでしょうか、後の者なのでしょうか。細かい議論を割愛して言えば、この先の者、後の者とは誰を指すのか、わからないのです。わかるようでわからない。大事なことは、わたしたち人間が考えている理屈や、思想や、それに基づく順序は神によって逆転されるものでもあり、神の自由な意思において超えられていくものであるということです。

 葡萄園に早朝から着て働いている者にとって、主人の意志と行動は受け入れがたいものだったでしょう。それを受けとるためには、自分の考えや理屈を手離すことも必要かもしれない。手離すというと大仰に聞こえるかもしれない。むしろ、自分の理屈や考えに頑固になっているわれわれが、神の自由な意思というものがあり、その神の自由な意思と恵みにより、このわたしが救われているのだ、という事実に目を向けること、それが求められているのでしょう。わたしたちの働きに関わらず、神の恵みの賜物をお与えくださる神の自由な意思にまこと気づいたとき、わたしたちは本当に神に感謝を献げ、喜び、その恵みをただ受けることこそが必要なことだと知らされていくのです。