マタイによる福音書連続講解説教
2025.5.18.復活節第5主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書20章17-28節『 仕えるために来られた主 』
菅原 力牧師
主イエスはエルサレムに行く途上で弟子たちに三度目になるご自分の受難予告、復活予告を語られました。三度同じことを、しかも回を重ねるごとにより詳しく、予告されたのです。弟子たちはこれをどんな思いで聞いたでしょう。「人の子は、祭司長たちや律法学者に引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を嘲り、鞭打ち、十字架につける。」弟子たちはこれを聞いてどんなことを思ったでしょうか。しかも今弟子たちとエルサレムに向かう途上にあるのです。そこは祭司長たちや律法学者たちがイエスに死刑を宣言する町なのです。
この三度の受難予告を聞いた弟子たちの気持ちを想像することは、受難物語を読み進むうえで、とても重要なことです。
さて、受難予告の直後、ゼベダイの息子たちすなわちヤコブとヨハネの母が主イエスのもとに来てひれ伏して願い事をしたというのです。「何をしてほしいのか」と主イエスが尋ねると彼女はこう言うのです。「わたしの二人の息子が、あなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるとおっしゃってください。」なぜこんなところで母親が出てきて願い事をしたのでしょうか。マルコ福音書の平行箇所を読むと、母親ではなく本人たちがこの願い事を直接言っています。なぜ母親なのか、という推測に関しては今日は深入りはしませんが、しかし、マルコと合わせ読んでわかることは、いずれにせよ、弟子であるヤコブとヨハネの二人が、こうした願いを持っていたことは、はっきりしているのです。だからこそ、主イエスはそのことを承知で、母親にではなく、二人に向かって答えられておられるのです。
ヤコブ、ヨハネだけでなく、自分たちの行く手に、苛酷な出来事が待ち受けていることは容易に理解できたでしょう。あるいは、自分たちもその過酷な運命に巻き込まれていくのではないか、そういう予感を弟子たちは感じていないはずがない。そうであるのなら、その苦しみの後には、神の国で主イエスの隣に座る栄光があってほしい、という願いです。
この弟子の願いを気楽な暢気な願いと受け取るのは、弟子たちの置かれた状況を理解していない人です。弟子たちの願いは笑い事ではない。
苦しみの向こうに、何らかのことが約束されている、そうでなければ、弟子たちがエルサレムに従っていくこと、その苦しみを受けることはたんなる犬死になってしまう。そう弟子たちが考えたとしても何の不思議もないのです。
主イエスはその要求をはっきりと退けるのです。「あなた方は、自分が何を願っているのか、わかっていない。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」
そこで二つのことが大きく語られている。
一つは、天の国で自分はどこに座るのか、どんなポジションが約束されるのか、というようなことは、わたしが決めることではない。ただ神がお決めになること、さらに言えば人間が知ることのできない、わからないことだ、ということが一つにはあるのです。つまり二人の弟子は、人間には知ることのできない、わからないことを要求しているのだ、ということです。
もう一つは、二人には、苦しみを受けることは嫌なこと、つらいことだ、という前提がある。だから、もしそれを受けるとしたら、その後の栄光であれ、約束を得るためのもの、が欲しい、という考えがある。それに対して主イエスは全く違う考えを持っておられる、ということです。
「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」、という主の言葉は、いろいろな意味のある言葉ですが、まずキリストが飲もうとしておられる杯であるということ。キリストの意志なのです。受難を受けることはキリストご自身の意志だということです。いやなことだが、止むを得ずということではない、ということではない、ということ。もう一つは、あなたたちはわたしの受ける苦しみを受けていくものとなるか、と尋ねておられる、ということです。しかもこの杯というのは、その苦しみを受けることが栄光の座を得るための試験ではないのです。これを乗り越えたら、天国の座は予定される、というのではない。主イエスにとって苦しみは、その後の座席を得るためのものではなく、むしろ苦しむことに積極的な意味がある。そして、この苦しみを受けることがキリストに従うことであり、キリストと交わる道でもあると22節の言葉は呼びかけておられるのです。
他の弟子たちがこの話を聞いていて、この二人の弟子のことで腹を立てた。腹を立てたのは、自分たちにもこの二人ヤコブとヨハネと同じような気持ちがあったからでしょう。抜け駆けをするな、という気持ちがあったのだと思います。それもよくわかることです。主イエスは弟子たち皆を呼び寄せ、あらためて語りかけられました。それは弟子たちの胸のうちにある思いを聞いたうえで、エルサレムに向かう主があらためて弟子たちに語りたいと思われたことです。
諸民族を支配しているものは、人々の上に君臨し、上から権力を振るっている。この世の王たち、権力者たちはそうやって人々を支配し、力で動かしている。
しかしあなた方の間ではそうであってはならない、と主は言われて、まったく別の道を示される。それは、あなた方の中で偉くなりたいものは、皆に仕える者となり、すべてのもの僕となりなさい、というのです。
上に立って、力で支配、権力を振るう、それが支配者の姿。大きく大きくなる。そして人の上に立って力を振る。実はわたしたちの救いのイメージもそういうものかもしれない。上から力で自分を引き上げるというような。そして何よりも自分自身も人より上に立っていたい。天国ではわたしを右に、という願いはまさにそうだと言えるのではないでしょうか。わたしも大きくなる、偉大になる、そういうイメージ。だからキリストにもそのような王者のイメージを投影する。その時苦しむということは、余分なこと、もっと言えば理解に苦しむことなのです。
一方あなた方そうであってはならない、と言われてキリストはわたしたちにそうではない道を示される。「あなた方の中で偉くなりたいものは」、という言葉は最終的に偉くなりたいなら、とりあえず今こうしなさい、という意味で語られているのではない。偉くなりたいという願い意志が、仕える道を歩むことで打ち砕かれていく、否定されていく、そういう性格のものなので、批判的に語られている、揶揄して語られているのです。キリストが指し示す道は、自分が大きくなって人を仕えさせる道ではなく、皆に仕える者となる道です。多くの僕の上にあなたが君臨するのではなく、あなた方自身が「僕となる」道なのです。
このキリストが示される道、すでに皆さんは何度も聞いておられる言葉であり、道であると思います。しかし聞いているからと言って実行できているわけでもないし、自分なりにその道を行こうという覚悟ができているわけでもない。だから改めて聞いて、茫然というか、茫洋とするのです。立ち尽くすというか、身動きが取れないのです。確かにわたしたちは、二人の弟子がそうであるように、苦しんだり、仕えたりして、天国の座席が約束されるのですか、という感覚の方が身近だったりもします。別に王様や権力者になることは望んではいないけれど、自分を大きくすることや、ちょっとでも偉大にする道の方が、仕える道よりはなじんできた歩みもあるのです。この主の言葉の前に立って、正直に振り返るなら、とても仕える道を選んで歩んできたと胸を張って言うことはできない自分がいるのではないでしょうか。そうでしょう。
そのわたしたちに向かって、キリストはこう言われる。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分のいのちをささげるために来たのと同じように。」これはここまでの話の理由文です。なぜこういう道をわたしが指し示すのか、その理由をキリスト自らが語っておられる言葉です。
ここでキリストが語られるのは、そもそもわたしがこの世に来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためである、ということです。一人の嬰児として、力ない赤ちゃんとして、王でも高官でもない、ヨセフのマリアの息子として生まれ、神の御国の福音を宣べ伝える者として歩んだのは、あなた方に仕えるため、奉仕するためなのだ。驕り高ぶり、自分が神の前で一人の罪人であることも見失い、神との関係も見失い歩んでいる者たちに、神の愛が、神の恵みがあなたを根本から支えている、という事実を明らかにするために、神はキリストを世にお遣わしになった。そして、わたしたちが知る由もなかった仕方で、神の愛を、神の恵みを、指し示された。それは神の独り子が人間に仕える道、神の御子がわたしの罪を背負うという僕となる道、そして人間に代わって人間の罪の罰を受ける道、身代金として自分のいのちをささげる道、そしてわたしたちを罪から救い、新しいいのちに活かすため、復活の主として仕えてくださる道。イエス・キリストご自身がこの道を生き、死に、甦られた、そのような道である、と主イエスはここで弟子たちに語っておられるのです。
一人一人胸に手を当てて考えてみると、このキリストが歩まれた道から自分が遠いというだけでない、日常の歩みの中で、仕える道が視野にすら入っていない自分がいることに気づかされる。12弟子たちも、おそらくこの言葉を聞いたとき、よくわからず、主イエスのみ心も遠いままだったかもしれない。わたしたちは、仕える道を歩まれた主イエスの歩みの前で茫然としつつも、この道を歩まれた主イエスを仰ぎ続けていきたい。主イエスの歩みに心を向けていきたい。主イエスのみ言葉に聞き続けていきたい。その中で、神の御力により、聖霊の働きによって、わたしの力ではなく、仕える道へと招かれ導かれ、その道を行くものとされることを仰ぎ見たい。主よあなたに従うものとさせてください、という祈りを持ちつつ、主イエスを仰ぎ続けたい。