教会暦・聖書日課による説教
2025.8.10.聖霊降臨節第10主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書22章23-33節『 神の力 』
菅原 力牧師
23節は「その日」という言葉で始まっています。「その日」とは、主イエスがエルサレムで多くの人々に神殿の境内で教えておられた日、そこに祭司長たちや長老たち、ファリサイ派といったユダヤ教の指導者たちも主イエスのもとにやってきて、攻撃的な質問をしたその日のことです。
主イエスはさらに、その人々に対して三つのたとえ話を語りました。それだけでない、こんどはファリサイ派の人々が主イエスの言葉尻を捕え、罠にかけようとしたその日でもあります。なんという日か、と思います。自分を捕まえようとする人々、殺そうとする人々との言葉のやり取りなのです。驚きのやり取りと言ってもいいし、普通に考えれば、こんな時に、こんな場所で交わさない話なのではないか。自分を殺そうとする人々に向かって、農夫たちが主人の僕たちを袋叩きにしたとか、殺した、というような話は、例え喩えばなしであってもしない。危険と背中合わせだからです。しかし主イエスはしておられるのです。そういう「その日」だということを受けとめつつ、読み進んでいきたいと思います。
さて、主イエスのもとに今度はサドカイ派の人々が近寄って来て尋ねたのです。サドカイ派というのは、ユダヤ教の中のファリサイ派と並ぶグループで、神殿に仕える祭司たち、さらに貴族たちが多く加わっているグループで、富裕層が多く、インテリも多く、このグループから大祭司は出ており、ユダヤ教の政治的宗教的指導者層を形成していました。サドカイ派は、モーセ五書のみを権威として認めており、その点ファリサイ派などとは大きく違いました。モーセ五書というのは現在のわたしたちの持っている旧約聖書で言えば、創世記から申命記までの五つの書物で、当時モーセが書いたと受け取られていたところから来る呼び名なのですが、これだけを自分たちのいわば聖典としていました。
そしてサドカイ派の人たちの大きな特徴として、復活を信じない、ということがありました。復活はもとより、天使だとか、霊だとか、今の言葉で言えば超自然的なことは信じない、という点が特徴的でした。
そのサドカイ派の人々が主イエスのもとに来て、こう尋ねたのです。「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄のために子をもうけなければならない。』」と切り出した。夫が死んだとき、子がない場合、その兄弟と結婚して、子孫を残す、これはレビラート婚と言って、ユダヤだけでなく、古代社会にあった一つの慣習ですが、サドカイ派の人々はこの話を持ち出して、七人の兄弟と結果的に結婚した女性の場合、復活の時は誰の妻になるか、と問いかけてきたのです。
サドカイ派の人たちはそもそも復活ということを信じていない人たちでした。その人たちがこういう質問をしたということは、主イエスを陥れようとしてした質問ということでしょう。おそらく主イエスの復活予告も含め、復活を語る主イエスのことを聞き及んで、この質問をしてきたのでしょう。
主イエスはこの問いかけに対して、無視することなく、真正面から答えられた。
「あなた方は、聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、娶ることも嫁ぐこともない。天のみ使いのようになるのだ。」
サドカイ派の人々の質問の底には、この地上の生の延長線上の復活というような観念があるのです。現在の地上の生活が場所を変えて、この世とあの世というふうに場所変えて続いていく、だから地上の結婚が死んで復活して、そこで問題となるというような話なのです。復活者の生活は地上の生活の延長のようなものなのです。
主がサドカイ派の人々に最初に応答した言葉、聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている、これはよくかみしめる必要があります。
聖書、というのはここではもちろん旧約聖書のことですが、どの箇所というような話ではなく、聖書において示された神の力と呼んでいい事柄です。
復活を信じられない、というサドカイ派の人々の気持ちはもちろんわたしたちにもわからないものではない。わかるわからない、ということで言えば、復活はわからない、という人は多いでしょう。わたしたちの理性や常識の範囲外のことだからです。わたしたちの経験も超えている。復活はわたしたちの死後のことであって、それは神の業であり、わたしたちの力の及ぶところのものではない。にもかかわらずサドカイ派は復活を自分たちの経験の枠の中で、常識の枠の中でとらえようとしている。そもそも人が死ぬということは、人間全体の死であり、魂だけがどこかで生き延びているという話ではない。旧約の時代を経て、人々は死んで人間全体としての死を迎える、ということを自覚するようになってきました。つまりわたしたちの地上の生は死で終わるのです。にもかかわらず、わたしたちはすべてを喪失するわけではなく、キリストにおいて、死んで尚、神との関係を喪失することはない。すなわち、死においてわたしたちはすべてを喪失して尚、神はわたしたちの関係を放棄されることはない。つまり神との関係の中にわたしたちは置かれ続ける。それはわたしたちの想像を超え、経験を超えた関係であって、神との関係の中におかれる。
キリストはこう言われた。「死者の復活については、神があなた方に言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きているものの神なのだ。」これは旧約聖書の出エジプト記に出てくる言葉です。神さまがご自分のことを示される自己啓示に続く言葉です。この言葉はおそらく「わたしはアブラハムの神でも在った、イサクの神でも在った、ヤコブの神でも在った」、と過去形で受け取られてきただろう言葉です。しかしキリストはこの聖書の言葉をそうは受け取らず、今も尚、アブラハムの神であり続け、イサクの神であり続け、ヤコブの神であり続けている神だ、と現在形で受け取るのです。つまり神においてアブラハムは生きている、神の前でアブラハムは生きている、ということなのです。どんな形で、どんなふうに生きているのかはわたしたちには定かではない。キリストはそれを天のみ使いのようになるのだ、と言っておられる。のように、と言っておられること自体、天のみ使いになるのだ、ではなく、のような、存在、そして黙示録的に言えば、その存在で、終末の復活の時を迎えるのだ、ということになるのでしょう。大事なことは、神はアブラハムとの関係を放棄することはなく、アブラハムの神であり続けているというのです。それがイエス・キリストが聖書から聞き取っている神というお方だというのです。
わたしたちは死んで、この地上の生とは断絶されます。だからサドカイ派が言うような、復活におけるの結婚生活とか、娶るとか、嫁ぐとか、地上の延長の何かを勝手に思い描くわけにはいかない。そもそもわたしたちにはそれを考えるよすがもない。ただここでキリストが言われるのは、死によってすべては断絶されて尚、神からの関係は断絶されることなく、神はアブラハムの神であり続け、イサクの神であり続け、わたしの神であり続けてくださるということ。そして神がわたしたちを復活させてくださるということ、それが、大事なことなのです。復活とは一切合切神によるものであり、神が驚くべきことに、死というあらゆるものを断絶する力の中においてもその断絶を貫いて、関係を持ち続けてくださるのです。そもそもわたしたちは、死んで尚、わたしであるのか、という根本的な疑問というか問いがあります。サドカイ派の言う複数の人と結婚していて、という話もさることながら、死んで尚、わたしがわたしであるということはあるのか、死はわたしのわたしとの断絶でもあるのではないか、そう考えて不思議はないのです。しかし聖書が語る、神の力とは、その断絶を貫く神の関係性があるということです。神がわたしの神であり続けてくださる、それが聖書を貫く神の力だ、とキリストはここで語ってくださっているのです。
終末における復活、というのですが、そこには、わたしたちが死において断絶されて尚、それを貫く神の力、神がわたしの神であり続ける関係において、わたしは同一人格として、わたしはわたしとして、神によって復活させられるのだ、ということなのです。
サドカイ派は復活はないと言っていた。しかしそれは神の力を知らないからだ、とキリストは言われた。神の力を知らなければ、わたしたちは復活ということなど全く分からない。サドカイ派は神を信じない人たちのグループではない。ユダヤ教の指導者層なのです。にもかかわらず、神の力にまこと触れていない、出会っていない。わたしたちはどうなのか。
復活という話題をサドカイ派が問いかけてきたこと、そしてそれにキリストが真正面からお答えになったことが、今日の聖書では語られている。復活は神を仰ぐ以外にはないことであり、神の力の不思議に出会うことなくして何一つわからないことなのです。しかし、事は復活だけではない、わたしたちの罪からの救いも、わたしたちが今この生を生きることも、すべて神を仰ぎ、神の力を知らされ、出会うことが求められているのです。神に向き直り、神に立ち帰り、み言葉に聞き、そのいのちに恵みに触れて歩みだしていく、それが求められているのです。