教会暦・聖書日課による説教
2025.8.31.聖霊降臨節第13主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書22章34-40節『 最も大事な戒め 』
菅原 力牧師
わたしたちが今聞いているのは、受難週と呼ばれる日々の、主イエスの行動、言葉、出来事です。そしてこれらの日々の出来事、言葉、行動は、互いに深く繋がり合っているということもこれまで受けとめ続けてきました。そのことを心に留めつつ今日のみ言葉にも聞いてまいりたいと思います。主イエスの許にはユダヤ教の指導者たちが、入れ代わり立ち代わりやってきました。この人たちは主イエスに反発や、怒りを感じていました。それで主イエスを陥れ、直接の逮捕の証拠となるような言質、発言を得るため、さまざまな攻撃的な質問や問いかけをしてきました。それは権威についてであったり、税金問題であったり、復活論争であったりしたのです。
さて、今日の箇所ではファリサイ派の人々が主イエスとサドカイ派の人々とのやりとりで「言い込められた」のを見聞きしていて、ファリサイ派の人々が集まったとあります。つまり対策を練ろうとした、ということでしょう。彼らの気持ちもよくわかるような気がします。自分たちが陥れようとして問いかけたことに対して、主イエスがひるむことなく、応答し、それがまた彼らの思いを逆なでしたからでしょう。そこで質問者に立ったのが、ファリサイ派のうちの一人の律法の専門家でした。専門家はイエスを試そうとして尋ねました。「先生、律法の中で、どの戒めが最も重要でしょうか。」何をどう試そうとしたのか、この文脈だけではわかりませんが、これはユダヤ人にとってはある種切実な質問でした。なぜかと言えば、ごく簡単に申し上げますが、ユダヤの律法というのは、613の掟から構成されていて、248の命令と、365の禁止条項とから成り立っていました。それほどの多くの掟を均一均等に守るというようなことは困難です。だからこそ、その掟の中で最も重要な、要となる戒めはどれなのか、という議論はユダヤ教の中でもしばしばなされたのです。
ある意味この律法の専門家は自分にとっても深い関心を寄せている問いを主イエスに投げかけた。
主イエスはこの質問に対して、こう応えられました。「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ。』
最も重要な戒めは何か、という問いかけに対して、一つではなく、二つのことを応えられた、ということはここで心に深く留めるべきことでしょう。
第一は神を愛すること、第二は隣人を自分のように愛すること、ということはこの二つがどちらも大事だ、ということなのでしょうか。ただ、この言葉自体は、鍵括弧で示されているように旧約聖書からの引用文で、あえて言えば主イエスはその二つの言葉をここに、持ってきたということです。ユダヤの人々であれば、誰もが知る旧約聖書の言葉です。しかしそれぞれに語られている文章をここに持ってきて二つを一つの重要な戒めとして応えられたこと、そこには主イエスのみ心があるのでありましょう。
まず虚心になって考えたいのは、神を愛するとはどういうことなのか、ということです。今日の聖書の言葉を読んで、あらためて神を愛するとはどういうことなのか、思い巡らすことは大事なことだろうと思います。
そもそも旧約聖書から引用ということで、旧約の文脈においては、つまりユダヤ教において神を愛するとは、どういうことだったのでしょうか。それは、神の戒めを守るということに他なりませんでした。愛するといってわたしたちがしばしば思うような情緒的なことではない。十戒をはじめとする律法を、戒めを守ること、それが神を愛することでした。そこで大事なのは、従順さということでした。なぜなら神を愛するということは、自分の生活を神に献げる、つまり放棄することでした。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、という言葉は、情緒的な文言ではなく、全生活を持って、全部の心を持って、全思考をもって戒めを守り、生活の中で実践する、という意味でした。
隣人を自分のように愛するということも、ユダヤ教においては戒めを忠実に守ることと深く結びついていました。隣人を愛するとは、盗むな、否認するな、欺くな、偽証するな、虐げるな、奪い取るな、ののしるな、という戒めを実践することそのものでした。さらに言えば、隣人というのもはっきり限定されていて、男女のユダヤ人、イスラエルの地の寄留者、そしてのちには改宗者、この人たちが隣人だ、とはっきり規定されていました。その意味で考える余地はない。実践あるのみ。それはユダヤ教の性格から考えて当然のことで、愛することも戒律の中で定められているということです。
主イエスはユダヤ教における神を愛すること、隣人を愛すること、よく知っておられたでしょう。承知の上でこの二つのことを一つの答えとして語られた。そこに主イエスの思いがあることは確かです。それは敢えて言えば、ユダヤ教徒はここが違う、というような話ではなく、ユダヤ教で生きられてきたこと、愛するということで受けとめられてきたこと、それを否定するというようなことではなく、その上で、というようなことなのかもしれません。
主イエスはこの福音書の中で、山上の説教を語り、敵を愛することを語られました。あるいはまた「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と有名な言葉を語られました。それらは隣人の限定するということに対して、わたしたちに問いかけているような主の言葉です。
隣人の限定性ということも含め、隣人を愛するということが神への愛と無関係なものではない。神を愛することと、隣人を愛することが分かち難く繋がり合っている、そのことに目を向けるよう主はここで語っておられるのです。
すなわち隣人を愛することは、神を愛することの中で示されたり、受け取りなおしたり、押し出されていくような、深い関係性の中で受け取るべきことだということです。神を愛すること、もう一度そこから考えてみましょう。神を愛する、わたしが。その場合、神がどのようなお方で、どのようにわたしに関係し、どのようにわたしたちを、わたしを愛しておられるのか、そのことを受けとることと、神を愛することとは深く呼応しています。神の愛をわたしたちが深く豊かに受けとめることと呼応しています。その際、わたしが神に愛されている、ということをわたしたちの尺度で勝手に類推するのではなく、あくまでも神に聞くことが求められる。愛されている自分を受けとめ、それに呼応する、それがわたしが神を愛するということの原型です。つまり神を愛することは神を知り、神の存在を正しく受けとめていくことと呼応している。そうでなければ神を愛すると言って、わたしたちは自分の観念で作り上げた神を愛することになる。その神の愛を受けて、感謝して、応答としての愛を神に献げていく。その際わたしが神の愛をどのように受けとめ、知らされてきたか、ということがわたしの隣人への愛を形成するということです。
例えば、神の愛が罪人をも愛する愛だということを受けとめていくとき、隣人を限定する、という理解が問われていくことになる。もちろんわたしたちは現実的に無限定で隣人を愛することができるわけではない。けれども愛とは何か、ということが神の愛から照らし出されていることはわかるのです。できるできないということで言えば、わたしたちの愛は神の愛を比較することすらできない、破れを含んだものです。しかし神の愛に由って照らし出されていく。
神を愛することは、神の存在を知り、神の恵みを知り、神の愛を知らされて、人間の愛に向かう、そういう方向性のあるものだということです。
そして神を知ること、それはイエス・キリストを知ることなのです。キリストの十字架の愛を知り、復活の愛を知り、終末への完成と至らせる愛を知るということなのです。しかし、このマタイ福音書22章の段階では、十字架を知らない。つまりこれは十字架を指し示す主イエス・キリストの言葉として聞く必要があるのです。主が十字架にかかった後、この言葉を思い起こし、受け取ってほしいという思いがここに込められている。キリストの十字架において神の愛は示されたのですから。罪人と共に歩み、罪人と生も、死も担い、罪人の罪を背負って十字架にかかったキリストは、神とはどのような方であり、神の愛はどのようなものか、明らかにしているのです。その愛を受けて、わたしたちは隣人へと向かう。
しかしその際大事なことは、わたしたちはこの二つのことを際限なく繰り返していくということです。何度でも何度も神の愛を受けとっていく、一度受けとった理解にしがみつくのではなく、何度でも何度でも神とはどのような方であり、どのような愛を与えてくださる方なのか、虚心に聞き、受けとめつつ隣人へと向かい、そこで破れたり、自分の愛の貧しさに嘆いたり、立ち往生したり、絶句したり、ときには自己満足に陥ったりしながら、また神の愛の何たるを聞き、受け直していく、そのことを繰り返していく、ということです。自己完結しない。
「この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ。」律法全体と預言者という言葉は旧約聖書の全体をあらわす言葉です。ここでキリストはこの二つの戒めをどう守るかが決定的ななのだ、と言っているわけではない。大事なこと、重要なことは、神の愛なのです。神の愛が聖書の根底にあるのです。それを受けとめ、神を愛し、隣人へと向かう、そこに聖書が根本的に指し示すものがあるのです。