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教会暦・聖書日課による説教

2025.9.7.聖霊降臨節第14主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書22章41-46節『 救い主は誰か 』

菅原 力牧師

 主イエスがエルサレムに入城されてからの主の歩み、行動、言葉にわたしたちは聞き続けています。主イエスはこのわずかな時間の中で、必要な行動をされ、積極的に語り、教えや喩えを語ると同時に、主イエスに対して敵対していた人々からの攻撃的な質問に対しても、大胆に応えていかれました。

 主イエスの周りには群衆はもちろん、主イエスに攻撃的な人々も大勢集まってきていたということです。今日の聖書箇所はそうした中で、主イエスの方から、ファリサイ派の人々にお尋ねになった、というめずらしい箇所です。

 主イエスの質問はこうでした。「あなた方はメシアのことをどう思うか。誰の子だろうか。」ユダヤ教の指導者、熱心な信仰者に向けて単刀直入、一番大事なことを切り出しています。「あなた方はメシアのことをどう思うか。」メシアというのは、旧約聖書の言語で救い主、という意味の言葉で、新約の言語ギリシャ語で言えばキリストのことです。

 メシアという言葉は、もともと「油注がれた者」という意味の言葉です。それがどうして救い主という意味を持つようになったのか、と言えば、中東の国々では王の即位の際に油を注ぐ、儀式が行われていました。油、という異和感を持つ方がいるかもしれませんが、高価で貴重なオリーブ油は、特別な力といのちを注ぐ、ということであり、ユダヤに限らず、油注ぎはなされていました。ユダヤの場合、この油注ぎは、王だけでなく、国の宗教的な指導者である祭司長や、王の側近の預言者などの任命任職の際に行われたのです。油を注がれることは、これらの人たちにとって欠かせないものでした。ユダヤの人々の間では王、祭司、預言者の三つの役割、力を備えたものこそ、メシアであり、そのようなメシアを人々は待望したわけです。それで来るべき救い主を油注がれた者、メシアと呼ぶようになっていったのです。そしてその具体的なイメージがダビデ王であったのです。

人々にとってユダヤの理想の王がダビデであったのでしょう。実際ダビデ王にその三つの役割が完備していた、というわけではない。わたしたちがサムエル記その他で知るダビデは、豊かなものも、欠けも併せ持った人でしたし、祭司や預言者としての賜物を持っていたのかどうかもわかりません。しかし王としてユダヤの国を豊かにしたダビデに対して、人々の思いが次第に膨れ上がっていったということかもしれない。メシアを思うとダビデ王のイメージが重なっていったのでしょう。主イエスが「誰の子だろうか。」と尋ねています。これはわたしたちからすると異和感を覚える表現です。けれどファリサイ派の人々は、何の躊躇もなく「ダビデの子です」と答えた。これがユダヤ人のイメージの根底にあったからなのです。メシア・救い主はダビデの子、この「子」と訳された言葉は正確には後裔、末裔、という言葉です。子孫。メシアはダビデの後裔として、子孫としてこの世界に生まれる、そういう言い伝えが、伝説が先ほどの油注がれたもの、ダビデ王のイメージの言い伝えと併せ、ユダヤ社会の中にあった、ということです。

 実際私たちが今読んでいるこのマタイによる福音書というのは、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」という冒頭の一句から始まっているのです。イエス・キリストをアブラハム、ダビデの後裔、子孫と捉えて書き始めているのです。あるいは、主イエスがこのエルサレムに入城した折、群衆はなんと言って主を迎えたかと言えば、「ダビデの子にホサナ」と叫んだのでした。ユダヤ社会の中に色濃くにじんでいるメシアはダビデの後裔、という待望感があるのです。

 それに対して主イエスはファリサイ派に対して一つの質問を投げかけるのです。「では、どうしてダビデが、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのですか。」そう言って旧約の詩編の言葉を主は引用されるのです。『主は、わたしの主に言われた。「私の右に座れ、私があなたの敵を、あなたの足台とするときまで。」』このように、ダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」この詩編の「主はわたしの主に言われた」の最初の主はヤハウェ、神のことです。次の「わたしの主」の主はメシアのことです。神は、わたし、このわたしはダビデでしょう、わたしのメシア・救い主にこう言われた。神であるわたしの右に座れ、これはメシアに言っている言葉です。神であるわたしがあなたの敵をすべて滅ぼすまで、そうメシアに向かって語っているのです。

 この詩編にあるように、ダビデはメシアを主と呼んでいる。それならダビデにとってもメシアは自分の子孫とか、後裔という枠の中でだけ捉えられるものではないだろう、と言っているのです。つまりダビデ自身がメシアを誰々の家系とか、血筋ということでだけ捉えていなかった、もっと私たちを超えた方としての救い主ということを受けとっていただろう、ということです。ある意味当たり前のことです。

 主イエスの問いかけを虚心に受け取り考えてみたいのです。そもそもメシア・キリスト・救い主というものを考える時、家系、血筋、王としての能力・力、祭司としての、預言者としての賜物、といったことを挙げて待望する。これらはすべて人間の願望でしょう。人間が思い描き、人間が考えた救い主の願望なのです。メシア、救い主はそれがもしわたしたちに与えられるとすれば、それは人間が捻り出すものではなく、神がよしとされるものを、神が与え給うのであって、人間の希望に神が応えるのではない。仮に人間の願望がどれほど真摯、真剣、まじめなものであったとしても、それは神が考える、神が意志されるものとは違うのです。わたしたちはそのことを本当に知らなければいけない。自分の求めが切実あればあるほど、人間は神をも拘束する。神であるなら、この求めに願いにこたえてほしい、応えるべきだ、応えないのなら神は神ではない、と人間はエスカレートしていく。

 しかし、神は人間の願望に拘束されない。神は神の意志し、考えにより、つまり神の自由により、神の与え給う救い主をこの世界に与えたまうのです。

 ダビデはメシアが神の自由において人間の思う考えに捕らわれることなく、神が与え給う救い主を、神が与え給うということを受けとめていたのではないか。メシア、救い主、キリストはまさに神からの恵みとしてこの世界に、人間に与えられるのだ、ということを受けとらなくてはならない。

 すなわち、それは人間の願望の反映ではないだけに、わたしたちの思うところとは違うがゆえに、神の御心に聞き続けなくては、誰が救い主なのか、わからないということでもあるのです。実際ユダヤの宗教的指導者たちは、目の前にいるイエスをキリストとは全く認めていないし、認識できていないのです。そう思うとこの場面はこの場面自体が、人間とキリストとの行き違いそのものをあらわしている場面であることに気づくのです。

 主イエス・キリストは、このエルサレムでのユダヤの宗教指導者たちとの問答の中で、メシアは誰か、キリストは誰なのか、問いかけておられる。そしてそれはユダヤ教指導者たちだけへの話ではない。エルサレムにいるすべてのユダヤ人、またユダヤ人以外の人々に向かって語られた主の言葉なのです。そしてここでもその根底に流れている主の呼びかけは、悔い改めて、神に立ち帰り、福音を信じよ、ということです。神に向き直り、神の声に聞き続けて、キリストを信じなさい、という呼びかけがこの底に流れているのです。

 確かにこの福音書が書き記すようにキリストはダビデの後裔から、子孫から生まれた。そのこと自体、とても不思議な事だと思います。神の御意志がそこにもあるのでしょう。けれどもそれは、人々が期待したような王としてでもなく、祭司としてでもなく、預言者としてでもなく、一人の人間として、ヨセフとマリアの子どもとしてお生まれになった。そして人々が期待するような意味での油注がれたものとして、人々の上に立ち、力を振るったわけでもない。そもそもダビデ王という人々の期待に応える権力者となったわけでもない。それはまさに、人間がさまざまに期待するメシアと全く違う存在なのです。つまりわたしたちは、自分がどんな救い主像を持っているにせよ、この方と出会わなくては、神が与え給う、神の意志し給う救い主とは出会うことはできないのです。

 主イエスの問いかけは続きます。「このように、ダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」あえてここを意味を取って言い換えるのなら、ダビデ自身がメシアを主、つまり自分たちの考えや、思いを超えた、神から与えられる救い主、と呼んでいるのだから、メシアが人間の考えや思いに拘束された我々の期待の投影であることがあろうか。

 これには誰一人、言葉を返すことができなかったことが記されています。ファリサイ派の人々も、メシアが自分たちの願望や期待の投影ではない、ということにはさすがに反論することはできなかったということです。

 わたしたちは救い主に出会い、その救いに与り、その救いのいのちの中で生かされていきたいと願っています。しかしその救い主はわたしたちが願望する偉大な王であったり、国のかじ取りを力で推し進めるようなものではない。わたしたちが期待する偉大な祭司、偉大な預言者でもない。わたしたちの願いや期待は神の御心の前で打ち砕かれる必要があるのです。救いは神から与えられるからです。神の御意志と神の救いのご計画の中で与えられるのです。イエス・キリストこそ、まことにわたしたちの救い主であり、いのちの主なのです。

 しかしそのことを受けとるためには、悔い改めて、つまり自分自身の思いが打ち砕かれて、神に向き直り、神の御意志に聞いて、福音を信じる者とされていかなければなりません。キリストをこの世界に与え手、わたしたちに呼びかけてくださっている神に向き直り、悔い改めて福音を信じて、イエス・キリスト救い主と今日も新たに出会うものとされていきましょう。