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マタイによる福音書連続講解説教

2026.3.1.受難節第2主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書27章11-26節『 判決を受ける主イエス 』

菅原 力牧師

 ユダヤの祭司長たちと民の長老たちは最高法院で主イエスを殺すための協議をして、イエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡したことが、この27章の1節2節に記されていました。この総督への引き渡しに続くのが11節です。

 「さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに『お前はユダ人の王なのか』と尋問すると、イエスは『それは、あなたが言っていることだ』と言われた。」総督というのは、ユダヤがローマの支配下にあったときにローマから派遣された代官のことです。総督であるピラトが主イエスに尋問したのは「お前のユダヤ人の王なのか」という問いでした。

 祭司長たち、長老たちは、主イエスをピラトに引き渡すにあたって、この人物は死刑に値する人物であるということをはっきりさせなければならない。ピラトが「お前はユダヤ人の王なのか」とまず尋ねたのは、祭司長たち、長老たちがそうピラトに告げたからです。ユダヤにはローマ支配下であれ、ヘロデ王という王がいます。ユダヤ人の王を自称するとなれば、それはユダヤにおいてローマに対する反逆を企てる政治犯、ということになるからです。当時こうした反ローマのグループは少なからず存在したのです。ピラトは総督として、ローマに反する政治犯は裁かなければならない。すると主イエスは「それは、あなたが言っていることだ」と言われた。この主の発言をどう受けるとか、肯定なのか否定なのか。しかし文字通り受け取るべきで、主はここでそれはあなたが言っていること、と語られたのです。

 主イエスのこの応答に対して祭司長や長老たちはさまざまに訴えました。ところが主イエスは、ピラトに応えた後、沈黙し続けるのです。

 ピラトは不思議でした。なぜこの男は、これほど訴えられているのに、沈黙なのか。当時に裁判において、訴えに対する沈黙はそれを認めることに他なりませんでした。祭司長たちは次々と主イエスに不利な証言をします。しかし主イエスは口を開かない。

 15節からバラバという囚人の話が出てきます。祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することになっていました。バラバ・イエスという名の囚人がいました。ピラトは慣習に従い、どちらの釈放を望むのか、民衆に聞き始めたのです。バラバ・イエスか、キリスト・イエスか、と民衆に問うのです。なぜこんなことをするのか、と疑問に思う人いるでしょう。ローマ総督なのだから、自分の裁量ですべて判断してもよさそうなものを。それについては長い話を割愛すれば、民衆の暴動や、民衆の反乱を回避しつつ、政治を行うための一つの手法だったのかもしれません。そういえば、祭司長や長老たちも主イエスの逮捕にあたっては、民衆の騒ぎを恐れて慎重に事を進めていました。

 ピラトが裁判席に着いている時、ピラトの妻からの伝言が届くのです。「あの正しい人に関わらないでください」との伝言でした。ピラトの妻は何らかの仕方で、主イエスがローマに対する抵抗の首謀者どころか、正しい人だということを聞き知っていた、ということなのです。ある意味これは驚かされることです。ローマ総督の妻が主イエスに対するはっきりとした視点を持っているのですから。

 ピラトはこの妻からの伝言には心揺さぶられたでしょう。一方祭司長や長老たちは、バラバを釈放して主イエスを処刑するよう群衆を説得、扇動、煽ったのです。

 ピラトの心のうちは動揺していたことが伝わってくるのです。それはそうです。祭司長や民の長老がこれほどに意気込んで引き渡してくるとは、事柄の是非はともかく、ユダヤ社会の重鎮たちの勢力と対決することにもなりかねません。総督として大きく揺さぶられます。また一方で、妻の一言も大きく響いていると思います。またピラト自身がこのイエスという人物をただ単純に極悪人と決めつけることができなかった、ということもあったでしょう。18節には人々がイエスを引き渡したのは、妬みのためだとわかっていたからである、とわざわざ書かれています。わかりやすく言えば、主イエスがユダヤ社会で多くの支持者を集めている、それを妬んでいる人々がイエスを死刑にしようとしているのではないか、という思いがピラトの中にあったというのです。ピラトの心のうちは揺れていたのではないかと思います。

 ピラトは再度民衆に尋ねます。「二人のうちどちらを釈放してほしいのか」。

 人々は「バラバを」と応えます。「ではメシアと言われているイエスの方は、どうしたらよいか」とピラトは重ねて尋ねます。皆は「十字架につけろ」と言うのです。ピラトは「一体、どんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく「十字架につけろ」と叫び続けた。

 ピラトが群衆の叫びの中で、また妻の言葉の中で、そしてあえて言えば自分の心の中で声の中で、激しく揺れているのを感じます。けれどもピラトは結局、群衆の叫びの声に呑み込まれていく。

 「ピラトは手の付けようがなく、かえって騒動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗っていった。『この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ』」手を洗うのはこのことについて自分は関係がない、ということを現すユダヤの伝統です。それをピラトは敢えてここで皆の前で見せて、この裁きはわたしには責任がない、お前たちの問題と突き返すのです。ユダを受けとった罪を悔い祭司長たちに受けとった金を返そうとすると、「我々の知ったことではない。お前の問題だ。」と祭司長たちが言ったあの言葉がここでもまた繰り返されているのです。ピラトはこの裁きの責任は自分にはない、という。しかし実際にはこの裁きにおいて主イエスの十字架刑は判決として下されるのです。群衆は「その血は、われわれと我々の子らの上にかかってもいい」と叫ぶのです。

 群衆のこの執拗なまでの十字架につけろという叫びは何なのだろうと思います。しかしここまでのマタイ福音書の文脈を思うと、ユダがそうであったように、自分が思う形の救い主でなかった、ということが根底にあるのでしょう。しかし、もっと奥深く考えると、人間の中には、神の子などいらない、人間中心でいい、神の言葉に聞いて生きるなどということはいやだ、というものが、あるのでしょう。神の子を十字架につけることで、人間は自分たちが勝ちだ、と思ったのではないか、といった人がいますが、あるいはそういう面があるのではないでしょうか。その血は我々の上にかかっていい、というのは、すべては人間の責任において、という思いが溢れている言葉なのかもしれません。「そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した」。ピラトのことを思うと、ピラトはさまざまな重力に押さえつけられ潰れるほどに圧力を受けている一人の人間の姿を思うのです。総督は皇帝と、その下にいる州全体の統治者の圧倒的な権力と重力のもとにあるものです。そして同時に、自分の赴任地のさまざまな力関係の中におかれ、大祭司や長老や、そして群衆の目に目ない力の中におかれていた。ピラトのここでの姿は、さまざまな重力を身に受けながら、右往左往、揺れ動きながら、結果的にどっちつかずな無責任な、生き方を余儀なくされている姿、といえるのです。

 わたしたちが今日の聖書箇所を読み進んで強く感じさせられるのは、主イエスの沈黙ということです。この総督に裁きの中で、人々の叫びが響く中で、最初に一言答えただけで、沈黙し続けた主イエスの姿は、ピラトはもとより、祭司長長老たち、そして群衆の姿とも違う、姿です。

 その姿は、一言で言えば、主イエスの変わることのない、意志の現れということです。もっと精確に言えば、神の変わらぬ意思に対するキリストの従順。キリストの変わらぬ意思ということです。十字架を負っていく、というキリストの御意志です。十字架で人間の罪を負っていくという意思。キリストのここでの沈黙は、その意思が変わらぬことの徴なのです。キリストの受難の歩みの中で、ユダによる引き渡し、弟子たちの逃げ去り、ペトロの否認、主イエスを支持した者たちが離れ去り、祭司長や長老たちによるイエス殺しの画策が進み、人間の罪の中で右往左往するピラトの姿が顕わになり、群衆の罪も噴き出してくる。その中でキリストの意思は変わらない。断固として十字架へ向かう御意志がここにあるのです。圧倒されるのです。人間の罪の連鎖を見て、人間にうんざりして、あきれて、こんな人間のために命を投げ出すことに何の意味があるのか、そう考えても何の不思議もない場面です。しかし主は、何の弁明も、反論も言われない。ご自分の意思が変わらないからです。むしろ、この人間の罪を負って十字架に架かるのだということいよいよ深く、受けていかれた。

 今日の聖書箇所を読むと、ここに人間のさまざまな思いが渦巻いていることが伝わってきます。主イエスを殺そう、死刑しようとする人間の思い、正しい人に関わらないでほしいという思い、人々の思いの中で右往左往する人間の思い。

 そのただ中で示されるのは、イエス・キリストの十字架への断固たる意志。人間の救いのために変わらぬキリストの意志。ピラトはさまざまな重力、圧力の中で悶えている一人の人だったけれど、キリストは人間が作り出すこの重力や圧力と無関係に生きた方ではないどころか、人間の罪が生み出す重力や圧力を身に受けて、それらを負って歩まれた方でした。しかしキリストはただたんに打ちひしがれて歩まれたのではないのです。神の人間に対する救いの御意志を受けとめ、その神の御意志に従うことこそ最も深い望みであり、喜びだったのです。

 イエス・キリストの沈黙の姿は悲壮な覚悟でなされていくものとは違う。神の人間に対する愛、その愛は罪人である人間を愛する愛であり、しばしば神をも殺そうとする人間を愛する愛であり、人間を救う愛です。その愛を身に受けて自らこの人間への愛ゆえに十字架へと向かう、キリストの姿なのです。このキリストの姿を受けとめることこそ、今日の聖書箇所がわたしたちに求めていることなのです。「キリストは、神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の形をとり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」