ルカによる福音書連続講解説教
2026.9.27.聖霊降臨節第19主日礼拝式説教
聖書:ルカによる福音書6章12-19節『 主イエスの選び 』
菅原 力牧師
今朝の聖書箇所には二つのことが記されています。一つは12人の弟子の選び。そしてもう一つはその弟子たちを伴った主イエスと大勢の民衆との出会いです。
主イエスはすでにここまでの歩みの中でペトロをはじめ、ゼベダイの子ヤコブや、ヨセフといった人々を弟子としていました。その数は定かではないのですが、既に何人かの弟子集団がいたようです。
主イエスは弟子たちと共に歩み、宣教の業を進めておられた。その歩みは主イエスの許に集まる多くの人々がいる一方、主イエスの言葉やわざに激しい反発を持つ人々もいた、そういう歩みでした。そうした中、主イエスは祈るために山に行き、夜を徹して神に祈られていたことが記されています。主イエスの宣教の歩みの一端を知る大事な報告です。
そして祈りの後、主イエスは「弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた」というのです。
短い文章ですが、ここに大事なことが凝縮されています。
まず、主は弟子たちを呼び寄せられた。そもそも主イエスの弟子というのは、自分から申し出たり、自主的に弟子となることを決断したりして、弟子入りしたわけでは全くないのです。このことはよく知っておく必要があります。
主の弟子となることは、わたしたちの自発性が第一義ではないのです。わたしたちの自発性がどうでもいいと言っているのではなく、それに基づくものではない、ということです。主が呼びかけて、主が語りかけてくださり、わたしたちを招く。主の働きかけがまずあるのです。
そしてさらにここで主は12人を選んだ、とあります。
どういう基準で、なぜ、この人たちが選ばれたのかは、いっさい書かれていません。ただ主のご意思ということなのでしょう。12という数字はイスラエルの十二部族を思わせるものですが、なぜ12人だったのかは何も語られていません。繰り返しますが、ここで大事なことは主イエスの主導性ということなのです。そして主はその12人を使徒と名付けられたのです。
使徒という言葉は、ユダヤでは古い歴史を持つ言葉です。代理として全権を委任されたもの、という意味の言葉です。まさしく弟子たちは主の代理として全権を委任されてやがて宣教の業に就くのです。委任され、遣わされていく者なのです。
つまりキリストの弟子、キリストの使徒は、自分がキリストに出会い、その教えや行動から受けた自分の印象や、自分が気に入った教えや、自分が取捨選択した自分の好きな主の言葉を語るのではなく、キリストのみ言葉を、あくまでも託され、委任されたものとして宣べ伝えるのです。派遣されていくものなのです。
主の呼びかけの中で、召しの中で、選ばれ、遣わされていく者、12使徒が立てられていったのです。その中には、最初に名前の出てくるシモン・ペトロや、最後に名前の出てくるイスカリオテのユダのようなその存在を知られた人物もいます。しかし、一方でどのような人物だったのか、ほとんど知られていない人たちもいます。
しかしこの者たちは、主によって呼びかけられ、主によって召され、主による選びの中で立てられ、遣わされていくのです。自分の中に主の弟子たるの根拠はないのです。それはどういうことかと言えば、弟子たち一人一人の力で弟子となる条件を備えたから選ばれたとか、一人一人の能力が弟子としてふさわしいから弟子となったわけでもないということです。ただ主に召され、主に選ばれた、ということが使徒たちの使徒たる根拠なのです。
使徒たちはこの後ずいぶん傲慢になったりもします。自分たちの中で誰が一番偉いのかとか、誰が右に座るのか、とか、目を覆いたくなるようなことをしていきます。それは敢えて踏み込んで言えば、弟子たちは自分たちの中に何か選ばれる理由があったと思い込みたかったのかもしれません。自分のここが優れているので、12人に選ばれたのではないか、と。しかし使徒たちが、キリストに選ばれたのは、神から選ばれたその理由はわたしたちにはわからない。
もし自分がキリストを選んだのなら、自分が嫌になったら、すぐにいつでも捨ててしまうこともできます。しかし、キリストが選んでくださったのであるなら、こちらがどんなに失敗しても、裏切ってキリストから離れようとしても、キリストの方が最後までわたしを追い求めてやまないのです。実際、使徒たちは選ばれたものであったのに、自分たちが選んだかのように、キリストが困難な状況に立ち至ると、見棄てていくのです。使徒たちは、自分たちが選んだかのように錯覚したのか、キリストの選びの意味を見失っていくのです。使徒たちはキリストによって選ばれているのであって、使徒たちがキリストを見棄てても、キリストは弟子たちは見棄てない。使徒たちがキリストを見棄てて逃げ去っても、キリストは使徒たちを見棄てないどころか、弟子として、使徒として受け入れ続けていくのです。そのことに気づいていくことが、キリストの弟子であるということなのですが、ペトロも、他の弟子たちも皆、そのことを見失っていく。それでもなお、キリストは使徒たちがキリストによって選ばれたものなのだ、という基点に帰ることを願い望まれたのです。イスカリオテのユダは主イエスを裏切った後、その自分に絶望して、自殺してしまった。裏切っても尚キリストの選びの中にある、ということに立ち帰らず、自分で自分の責任を取ろうとしたのです。しかしペトロは主イエスを裏切った後、自殺しなかった。そうしてもう一度主イエスの選びの中にあることを、復活の主との出会いの中で受けとめていったのです。キリストの選びとは、そのようなわたしたちを根底から支えるものなのです。
使徒たちがこれから託されていく、委託されて宣べ伝えていくのは、主イエス・キリストによる救いです。十字架による救い。そして復活による救い。そして昇天して、神の右に座し、聖霊において働き、執り成し、終末の救いを約束してくださる。それは使徒たちが自分の持てる力と自分たちの信仰で宣べ伝えることのできるものではないのです。使徒たち一人一人にとって、自分がキリストを見棄てる、裏切るという破れの中で、不信仰そのものの中で、その自分を選び続ける主イエスの恵み、信実を受けて、主によって新たに信仰を与えられ、神からの力を受けて主の福音を宣べ伝える者とされていくのです。使徒たちは、選ばれて今在る者であること、そして、主の恵みと力によって歩む者とされる、ということを深く経験させていただきながら歩んでいったのです。
わたしたちは、使徒ではありません。しかしわたしたちキリスト者は、使徒と重なり合う経験を与えられているものなのです。わたしたちもまた主の呼びかけと、召しの中でキリストの弟子とされたものであるということです。
徴税人レビに対して、主イエスは「わたしに従いなさい」と呼びかけられた。わたしたちは一人一人、キリストが呼びかけられたものです。わたしに従い、わたしと共に歩んでいこう、という呼びかけを、わたしたちは聞いて、受けて、キリストの僕とさせられたものなのです。なぜわたしがキリストに在る者、キリスト者として選ばれたのか、それはわたしにはわからない。しかしキリストに選ばれたことを、わたしたちは受けとめているのです。キリストの選びの中で、キリストの恵み、キリストの愛、キリストの信実に応えて歩みだしたものなのです。
そうであるのなら、使徒たちと同じように、わたしたちも自分の破れや、不信仰の中で、キリストの恵みを受け続ける。キリストからの力を与えられ、キリストから新しい信仰を与えられ、主の証人として歩んでいくことがゆるされているのです。
17節からは主が弟子たちと共に山を下り、平地に立って、おびただしい民衆と出会ったことが記されています。そしてここで、マタイが山上の説教を語った主を記しているように、ルカは平地の説教を語る主イエスを伝えているのです。
ここで主は御言葉を語り、癒しの業をなさる。病気を癒し、穢れた霊、悪霊に悩まされている人々を癒されたのです。それを次週以降詳しく聞いていくことになるのですが、ここで主の選びとのつながりで一つの事を言えば、病気の時、人は孤立感を深めたり、神も生きて働いてくれない、とおもったり、神から遠ざかったりもします。悪霊の働きは人間を神から遠ざけることであり、神などいないと思わせる力でまさに病と深く繋がってくるのです。主イエスは御言葉を語り、病を癒されたということは、まさにイエス・キリストが共にあること、神が共にいてくださることの指し示しです。
主イエスによる使徒の選びとは、使徒たちの歩みを貫く主の選び、主の恵み、主の信実のことでした。それはわたしたちの人生を貫くキリストの愛、神の恵みと言っていい事柄です。キリストの癒しはそこに深く根差す癒しのわざです。
弟子たちは、使徒たちは、そのキリストの恵みをキリストと共なる歩みの中で、受けとめていくよう招かれ、召され、選ばれた一人一人なのです。